George V ジョルジュ・サンク ※ フォーシーズンズ ホテル ジョルジュサンク パリの朝食 - Worldwide Luxury Hotels & Cruises ジョルジュ・サンク(George V)は、パリにある高級ホテル、フォーシーズンズ ホテル ジョルジュ・サンク パリの住所です。 シャンゼリゼ大通りに面したホテルで、パリの主要なランドマークや高級ブティックに囲まれた、非常に魅力的な立地です。 アールデコ様式の建築とルイ15世様式の内装が融合した、豪華で洗練されたホテルです。また、ミシュランで星を獲得したレストランも充実しており、パリの高級ホテルのひとつとして知られています。 「アール・デコ」 (Art Deco)とは、1910年代半ばから1930年代にかけてヨーロッパやアメリカで流行した装飾様式です。フランス語で「装飾美術」を意味する「art décoratif」の短縮形です。 線や記号、幾何学的な模様やパターンで構成されたデザインが特徴です。 それまでの、デザインに凝りすぎて大量生産には向かなかった「アール・ヌーボー」に代わって、工業的で合理性を目指しフランスで発祥しました。 ルイ15世様式(ロココ様式)とは、18世紀のブルボン朝後期におけるフランスの文化・芸術の表現様式です。「ロココ」とはつる草や貝殻をあしらったロカイユ模様から発した言葉だと言われています。フランスの貴婦人たちによってブームになった、淡いパステルカラーを多用した優雅で雅やかなスタイルです。 お部屋の中は分かりませんが、アフタヌーンティーを頂いた、ロビーラウンジは、ロココ様式で、ラウンジから見えた中庭は、アール・デコ様式だったかなと思います。 中庭には、紫の蘭がつるされていて、モダンな印象でした。 ホテルのお花は、アメリカ人フロリストのジェフ・リーサムが装飾したものだそうです。
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Liberty リバティ 7月4日は、1776年フィラデルフィア(ペンシルベニア植民地)で、アメリカ13植民地がイギリスからの独立を宣言し、アメリカ独立記念日となりました。 トーマス・ジェファーソンによって起草された、アメリカ独立宣言の文書の中にある有名な言葉で、 ” All men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.” 「すべての人間は平等に造られ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求を含む不可譲の権利を与えられている。」 という一節があり、この言葉は、アメリカ独立革命の理論的根拠となり、後の思想にも大きな影響を与えました。 アメリカ独立宣言で保障されている3つの権利: Life, Liberty and the pursuit of Happiness(生命、自由、幸福の追求) これらは、具体的に保障されるべき権利として挙げられています。特に「幸福の追求」という言葉は、当時の思想家ジョン・ロックの「生命、自由、財産」という考え方から影響を受けています。 「Liberty」と聞くと、イギリスの老舗百貨店リバティ・ロンドンも思い出します。 その建物は、テューダー朝の建物で、シェークスピアの物語にも登場してきてもおかしくないかのような雰囲気で、現在も存在しています。 リバティ社が展開するテキスタイルブランド、およびそのブランドの生地、特に、リバティプリントと呼ばれる小花柄のプリント生地が日本でも人気です。 リバティ社は、1875年、アーサー・リバティが、ロンドンで創業し、東洋の装飾品や美術品などを扱うお店としてスタートしました。 リバティプリントに使われる代表的な生地として、タナローンという上質な綿ローン生地があります。 これは、アーサー・リバティが、エジプトのタナ湖周辺で見つけた高品質な綿花に由来しています。 タナローンは非常に細い綿糸を使用し、特別な工程で織り上げられるため、その触り心地はシルクに匹敵するほ ど滑らかで柔らかです。横糸に100番...
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Le Taillevent タイユヴァン ※ Le Taillevent - Paris - ミシュランガイドレストラン 以前、パリに観光に訪れたときに、ランチだけでも...と思い、こちらのレストランを予約しました。 タクシーで向かったので、場所がうろ覚え ですが、確か、賑やかなシャンゼリゼ通りから、少し小道に入ったところにあったと記憶します。 厨房に一番近い席に案内され、厨房の中の緊張感を感じながら、店内のモダンな内装と、洗練されたお料理に満足しました。ビジネスランチに利用しているビジネスマンだと思われる方々が、食後に、葉巻を吸っている姿を目にして、感服しました。 「LE TAILLEVENT(ル・タイユヴァン)」 は、1946年、フランス・パリ9区にアンドレ・ ヴリナ氏がオープンしました。 パリで最も伝統のあるレストランの1つに数えられます。その料理、サービス、そしてワインのセレクションは世代を超えて評価されており、現在パリで最も予約の難しいレストランの1つとして知られています。 店名「タイユヴァン」の由来は、中世にまでさかのぼります。1380年、フランス語で書かれた最古の料理本『ル・ヴィアンディエ』がギョーム・ティレルというグランシェフによって書かれました。 ギョーム・ティレルは、通称「タイユヴァン(Taillevent)」と呼ばれていたと言われていました。フランス語でtailleは「切る」、ventは「風」という意味です。 威勢の良い人という意味合いから「タイユヴァン(Taillevent)」=「風を切る」というあだ名で呼ばれていたということが有力視されています。 フランス料理の出発点となった、この伝説の料理人のあだ名をとり、レストラン「タイユヴァン」の名は付けられました。 その後タイユヴァンは、1973年から33年間、三ツ星レストランの座を守り続け、世界的名店の一つとして名を連ねるようになりました。 かつてモルニー公爵の私邸(19世紀)だったこの静かで親密な空間は、外界から隔絶されたような感覚をもたらします。 現在はジュリアーノ・スペランディオシェフ(以前は「ル・クラレンス」でクリストフ・ペレのスーシェフを務めていました)が厨房を率いています。 メニューは、小規模漁業で獲れたターボット、アンズタケ、夏トリュフ、「タイユヴァン伝統」のラングスティー...
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Montagne Sainte-Victoire サント・ヴィクトワール山 ※ポール・セザンヌ (1839年 - 1906年 ) こちらは、フランス南部のエクス=アン=プ ロヴァンスの市街地の東、市域の南東部に位置します。 この山は、エクス=アン=プロヴァンス出身の画家、セザンヌ(1839 - 1906)の家の近くから見ることができ、彼の絵画のシリーズ(44点の油画と43点の水彩画)で取り上げられ、多くの人から慕われています。 エクス=アン=プロヴァンスは、フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の古都です。略称はエクス(仏: Aix)です。 プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっています。 ラテン語のアクア(水)から転訛したエクスの名が示すとおり、街中の至る所に大小の噴水が湧き出しています。 中でもミラボー大通り(Cours Mirabeau)にあるロトンド大噴水、温泉の湧く苔むした噴水、ルネ王の噴水、マザラン地区にある4頭のイルカの噴水、旧市街の市庁舎の噴水、アルベルタの噴水など一見に値するものが多々あります。 「セザンヌのアトリエ」を訪れましたが、エクス=アン=プロヴァンスのかな賑やかな街の雰囲気とは異なって、閑静な丘の上にあり、リンゴなどの静物画を制作した場所であることがよく分かります。 宿泊したヴィラ ガリシ ホテルも、アトリエの近くで、19世紀の邸宅を改装した、3ヘクタールの庭園に囲まれた静かな場所にあり、絵を描きたくなるセザンヌの気持ちが分かりました。 帰りがけ、マルセイユ空港に向かうタクシーの中で、運転手さんが、車窓から見える、サント・ヴィクトワール山について、説明をしていました。セザンヌと同じく、地元の人に愛されている誇り高き山なのですね... 参考: エクス・アン・プロヴァンス【フランスの美しい街】 – 世界の最も美しい村をめぐる
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Nice ニース 地中海・コート・ダジュールに面する、世界的に有名なリゾート地・観光都市です。 ニースは、地中海性気候であり、一年を通じて気候は安定していて、夏はよく晴れ乾燥しており、まとまった雨が降るのは月に1、2回程度です。そのため欧州各地(から夏のバカンスに訪れる者が多く、冬も比較的温暖で気候が安定していることから、旅行者は1年中絶えません。 ※ プロムナード・デ・ザングレの魅力・地図・行き方【JTB】 ニースは、紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、紀元前2世紀頃よりケルト系の住民が定住しました。 歴史的にイタリア文化圏に属した時代が長かったため、言語・文化の面ではフランスよりイタリアに近い特徴があります。 イタリア統一運動の英雄として知られるガリバルディは、1807年、現在のフランス領ニースで生まれました。当時、ニースはサルデーニャ王国領でしたが、フランス革命の影響で一時的にフランス領となりました。 18世紀後半にはイギリス人がニースで冬を過ごすようになり、富裕なイギリス人の中には、地中海に沿った遊歩道の建設計画を提案する者もいました。 19 世紀にはヨーロッパのエリートたちの保養地となり、長年にわたって多くの芸術家たちのゆかりの地になっています。 そのひとりであるアンリ・マティスの生涯にわたる絵画コレクションは、マティス美術館に収蔵されています。マルク・シャガール美術館には、シャガールの主な宗教的な作品が展示されています。 サガンの小説『悲しみよこんにちは』では、17歳の少女セシルがコート・ダジュールの別荘で過ごす一夏が描かれています。 お天気の良い夕暮れ時に、ニースとモナコの中間に位置し、海抜420mの断崖の上にそびえ立つ、エズ村を訪れました。 高いところから 見下ろすと、 真っ青なコート・ダジュールは、 海がキラキラと輝いていて絶景でした。 海岸沿いは、「イギリス人の散歩道」(プロムナード・デ・ザングレ)があり、小石の浜として知られています。のんびりとお散歩しても気持ちが良いです。 ニースの郷土料理は、日本でもおなじみの、「ラタトゥイユ」と「ニース風サラダ」です。 海岸沿いのレストランで、アサリを使ったパスタ「ボンゴレ」を頂きましたが、美味しかったと記憶します。 日本の熱海ともどこかしら似たような雰囲気の場所です。 参考: 彩り鮮やか...
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Aimez-vous Brahms? ブラームスはお好き 1959年に発表されたフランスの作家フランソワーズ・サガン作の小説です。 ※ ブラームスはお好き (新潮文庫) | フランソワーズ サガン, Francoise Sagan, 朝吹 登水子 |本 | 通販 | Amazon サガンがデビュー作『悲しみよこんにちは』(Bonjour Tristesse )から5年後の23歳の時に書いた作品で、 ストーリーはパリを舞台に3人の男女が織りなす恋物語です。 題名の「ブラームス」は作曲家のヨハネス・ブラームスのことで、「ブラームスはお好き」は、シモンがプレイエル・ホールでのコンサートにポールを誘う手紙の中で「ブラームスはお好きですか?」とさりげなく問う一文から。 若くして1度離婚した後、現在は装飾デザイナーの職につき経済的に自立した39歳の独身女性ポールが主人公です。 互いに束縛せず、同棲もせず、お金の貸し借りもなし、という約束のもと、同じ独身の中年男性ロジェと交際を続けてきたポールはある日、若く心優しい25歳の青年シモンに出逢います。 ポールもロジェと同じく何をしても良いという約束だが、ロジェの気まぐれさに寂しさを感じ、でも約束のため言えず孤独だったポールは、ロジェを愛しながらもいつしかロジェとは正反対の繊細なタイプで、自分に積極的にアプローチしてくるシモンに少しずつ惹かれていきます。 時には寂しさに涙しながらも長い関係を築いてきたロジェか…、裏表のないストレートな気持ちで自分を求めて来る年下のシモンか…、ポールの心は揺れ動きます。 それまでは仕事中心で他の若い女達と浮気をし、ポールをあまり省みなかったロジェは、シモンの存在を知り焦ります。 しかし、約束で深入りせず、今の若い浮気相手のメージーとも関係を続けます。やがて、ポールとシモンは同棲を始めますが...。 高校生の時に読んで以来ですが、 『悲しみよこんにちは』も併せて、 メランコリックな印象の小説だったと思います。 近日Netflixで配信されている、『エミリー、パリへ行く』というドラマがありますが、「ブラームスはお好き」の現代版で、似たような題名にすると、「パリはお好き?」になるのでしょうか。 こちらは、2020年に配信されたアメリカ合衆国のテレビドラマシリーズで、シカゴからパリに移住したエミリーの生...
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L'abbaye de Fontevraud フォントヴロー修道院 フランス・メーヌ=エ=ロワール県フォントヴロー=ラベイ近郊にある修道院です。 巡回説教師ロベール・ダルブリッセルによって創建されました。 訪れたときの印象では、イギリス王家の人たちのお墓があることから、イギリスとの関係が深かった事や、修道院のキッチンが残されていて、かなり大人数の食事の支度がなされていた事が窺えました。 修道院の創設初期には、イギリスの王家、プランタジネット家が、修道院の有力な後援者でした。 その背景として、修道院は、男女の聖職者が分かれて生活を送っていて、修道会は外国でも成功をおさめていました。多くのフォントヴロー派修道院がイングランドにも建てられました。 また、修道会の指導者は女性であるべきだとして、初代院長としてペトロニーユ・ド・シュミエ(Pétronille de Chemillé)を任命し、彼女の後継者となったのはイングランド王ヘンリー2世の伯母にあたるイザベル・ダンジューでした。 さらに、イザベル・ダンジューが院長であった時代、ヘンリー2世の妃アリエノール・ダキテーヌが夫亡き後に尼僧としてフォントヴローにいたことも関係しています。 このような措置が、フランス・ブルボン王家を含む多くの高貴で裕福な尼僧を年中惹きつける要因となりました。 ルイーズ・ド・ブルボンは自らが院長を務めていた間、自分が手を加えたものの多くに自身の紋章を残しました。 政治的には、フランス国内の領土をめぐって、イギリス王家とフランス王家は対立関係にありました。統治を巡る争いや、両王家の強引な結婚が元となって蜂起が起こっています。 この修道院には、イギリス王家のお墓もあり、以下、前方は、リチャード1世、後方はイザベラ・オブ・アングレームの墓になります。 リチャード1世:プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド国王(在位:1189年 - 1199年) イザベラ・オブ・アングレーム:プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)ジョン(リチャード1世の弟)の王妃 その後、フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)までは、国内最大の権力を有する修道院として知られました。 1804年にナポレオンが監獄として利用したことから、破壊...