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5月, 2025の投稿を表示しています
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  Las Meninas 女官たち 初めてこの絵画に出会ったとき、真ん中の「 マルガリータ王女」が印象的なのと同時に、不思議な感じがしました。 これは、ディエゴ・ベラスケスが1656年に描いたスペインのバロック絵画で、スペイン・マドリードの プラド美術館に所蔵されています。 タイトル 「ラス・メニーナス」(Las Meninas)は、 「女官たち」を意味し、作品には幼い王女マルガリータと、彼女に仕える女官たち、そしてベラスケス自身が描かれています。 舞台は、フェリペ4世のマドリード宮殿の大きな一室です。 人物像のうち、幾人かはカンバスの中から鑑賞者の側に向かって注意を向け、残りの幾人かが互いに交流しています。 幼いマルガリータ王女を取り囲んでいるのは、お付きの女官、侍女、目付役、2人の小人と1匹の犬です。 彼らの背後には、大きなカンバスに向かうベラスケス自身が描かれています。ベラスケスの視線は絵の中の空間を超え、絵の鑑賞者自身の立ち位置の方向に向けられています。 背景には鏡がかかっており、王と王妃の上半身が映っています。王と王妃は、絵の外、つまり鑑賞者の立ち位置と同じ場所に立っているように見えます。 謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、観賞者と絵の登場人物の間にぼんやりした関係を創造します。 17世紀のスペインでは、画家が高い地位を得られることは、めったにありませんでした。絵画は、あくまで工芸であって、詩や音楽のような芸術とは見なされませんでした。 しかし、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷で、苦労の末1651年2月、侍従長( aposentador mayor del palacio )に任命されました。このポストのおかげで、ベラスケスは、地位と収入とを得ることができました。 しかし、同時にその任務にかなりの時間をとられることとなりました。人生最後の8年間で、彼は作品をほんの少し仕上げられただけでしたが、その大部分は王家の肖像でした。 『ラス・メニーナス』を描いたのは、彼が王宮で働き始めて33年目のことでした。 『ラス・メニーナス』は、西洋美術史において重要な作品であると長く認められています。 バロック期の画家ルカ・ジョルダーノは「絵画の神学」を象徴するものだと言い、19世紀の画家トーマス・ローレンスは「芸術の原理」と呼びました。...
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  Gare d'Orsay オルセー駅 初めてパリを訪れたとき、オルセー美術館の建物の大きさに驚いたばかりで、元 々は、鉄道の駅だったことも知らずにいました。 オルセー美術館は、フランスのパリにある19世紀美術専門の美術館で、 前回訪れたときは、エミール・ガレの作品もアールヌーボ展として、たくさん展示してありました。 駅は、1900年のパリ万国博覧会に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されました。 その後、1939年には近距離列車専用駅となり、 1986年に、 イタリアの建築家ガエ・アウレンティの改修によって、 オルセー美術館としてオープンしました。  オルセー美術館のシンボル的な存在である「大時計」は、かつてのオルセー駅の面影を残す、美術館のランドマークとして知られています。 5階に位置し、黄金色に輝くその姿は、美術館を訪れる人々に印象的な空間を提供しています。その歴史的な価値と美しいデザインは、美術品鑑賞だけでなく、美術館全体の雰囲気を高めています。 大時計の裏側からは、パリ市街を一望できる絶景が広がっています。 美術館の歴史的な空間と、美しい街並みを同時に楽しめるのも魅力の一つです。  ※  【2025年最新版】オルセー美術館・美しい輝きと歴史を刻む大時計|Musée d'Orsay パリの街歩き
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  Metz メス 同じ「メス」という発音でも、英語では、messで、フランス語では、metzです。 こちらは、フランス北東部に位置する都市で、西部はモーゼル川とセイユ川の谷にあたり、市中心部とサブロン地区は小高い丘の上にあります。市東部の地区は標高が高く、ロレーヌ盆地の支脈にあたり、標高358mのサン=カンタン山が市を見下ろしています。 この都市は、紀元前52年のカエサルによるガリア征服まで、ケルト人のMediomatrici族の城市でした。ローマ帝国へ編入されると、すぐにメスは人口4万のガリアにおける中心都市のひとつへ変化し、蛮族の襲撃と5世紀末のフランク族の移住までそれを維持しました。 神聖ローマ帝国領にあって、ヨーロッパ経済の中心地の一つであったメスは、1552年にフランス王アンリ2世がトゥール、ヴェルダンと共に占領、1648年のヴェストファーレン条約で正式にフランス領になりました。 1870年に勃発した普仏戦争では、この地において、フランソワ・アシル・バゼーヌ将軍率いるフランス軍の主力が包囲されました。その救援に向かったナポレオン3世は、その途中のスダンで捕らえられプロイセンに降伏しています。 戦争後、メスはドイツに併合され、1918年の世界大戦終戦まで48年間、この状態が続きます。 19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで活躍したアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家のエミール・ガレ(Emile Gallé)は、メス郊外に工房を構え、「ロサ・ガリカ」(仏名: ローズ・ド・フランス)を主題にした装飾の作品により、普仏戦争(1870-1871年)の敗北によってフランスが失った領土への愛惜の念を薔薇に託しました。 戦争前、ロレーヌ地方ではロサ・ガリカは、フランス領だったサン=カンタン山にしか自生していませんでした。その山は戦後ドイツ領に変わり、簡単に近づくことは出来なくなりました。それでも「『フランスの薔薇』と呼ばれる野生の薔薇は、戦場で流された血のように赤い花を咲かせ続ける」と、ガレは訴えました。 こちらは、「フランスの薔薇(ロサ・ガリカ)」をモチーフにしたガレの後期のガラス作品です。1901年、ナンシー中央園芸協会の会長を退任するジュール=レオン・シモンのために、脚付きの大杯を制作しました。メスに生まれ、バラの研究に尽力したシモンへのオマージ...
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  Eton mess イートン・メス ストロベリー、メレンゲ、クリームを混ぜて作られるイングランドの伝統的なデザートです。 いちごが好きなのは、日本でもイギリスでも、鳥だけではありません。 このお菓子は19世紀からその名が知られて、 イートン校対ハーロー校のクリケット対抗戦で、昔から出されてきました。 イートン校とハーロー校は、 イギリスを代表する名門パブリックスクールです。イートン校は、王室の子弟も多く通う伝統校で、ハーロー校は歴代の首相を輩出してきた学校として知られています。 イートン・メスは、 ハーロー校 でも時々提供され、 別名で、 Harrow Mess ハーロー・メスとも呼ばれています。 イートン校の司書だったロビン・ウィアーが著した料理本『Recipes from the Dairy』(1995年)[によると、イートン・メスは、1930年代には校内の売店である「sock shop」でアイスクリームやクリームの中に、ストロベリーかバナナを入れて、イートン校独自の製法で提供されていました。 メレンゲを加えるようになったのは、それ以降のことで、マイケル・スミスが著した『Fine English Cookery』(1973年)でも触れられています。イートン・メスはあらゆるフルーツを使って作られますが、ストロベリーが最もポピュラーな材料です。 イギリスでは、 6月頃がいちごの旬とされていて、 ロンドン郊外には「Pick your own (PYO)」と呼ばれる農場があり、自分でいちごを収穫して楽しむことができます。  しかし 、いちご狩りで収穫したいちごを大量に食べるのは禁止されている場合があり、 味見程度に摘んで楽しむ程度が一般的です。 レシピの参考: イートンメス | イギリス菓子のレシピとお話 
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Strawberry Thief いちご泥棒 インディゴ抜染に赤や黄色といった藍色以外の色を取り入れた、 19世紀イギリスのテキスタイルデザイナー、 ウィリアム・モリスの最初のテキスタイルです。 いちごをついばんでいるツグミを由来として描かれた愛らしく美しいデザインです。 ウィリアム・モリスは、デザイナーだけでなく、詩人、ファンタジー作家、アーティスト、印刷者、翻訳家、建築保護運動家、社会主義活動家でもあり、 これら多方面に関わるアーツ・アンド・クラフツ運動主導者です。 多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた為、「モダンデザインの父」と呼ばれています。 現在、日本でも、カーテンやクッションなどのファブリックに使用されいて、売っているのを良く見かけます。 モリスはケルムスコットにある別荘の庭でイチゴを育てていました。 ある日、収穫しようとしたいちごを小鳥たちが食べてしまうというエピソードが、この柄のインスピレーションとなりました。   ※  The family of art, design and performance museums · V&A   イングランド ロンドンの博物館