William Somerset Maugham
ウィリアム・サマセット・モーム


Amazon.co.jp: 人間の絆(上) (新潮文庫) : サマセット・モーム: 本


このブログを書き始めてから、こちらのイギリスの小説家に出会いました。

W・サマセット・モームは、ブログで記載した、タイ バンコクのマンダリンホテルに滞在したことがあり、フォーシーズンズ ホテル ジョルジュ・サンク パリのある、パリ8区の在仏イギリス大使館内でに生まれ、ニースの自身の邸宅で亡くなっています。

ウィリアム・サマセット・モームは、1874年1月25日、フランス・パリで生を受けました。両親はともにイギリス人であり、父ロバート(1823年生まれ)は在パリ英国大使館に顧問弁護士として勤務、サマセットは4人兄弟の末子でした。

父と母は17歳という年齢差があり、母メアリは名門の家柄で軍人の娘であり、その美貌からパリ社交界の華と謳われました。彼女のもとには、作家プロスペル・メリメや画家ギュスターヴ・ドレも訪れたといいます。

10歳で両親が病気で亡くなり、孤児となります。イギリスに居る牧師の叔父に引き取られます。モーム自身も、青年期は病気を患い、南フランスで転地療養しながら、学問をします。イギリスに帰国後、医師となりました。第一次世界大戦においては軍医として従軍し、その後、諜報部員としても活動しました。

ロシア革命時、モームは、英国秘密情報部に所属する情報工作員でした。また、モームは同性愛者としても知られてます。そして、モームは、生涯にわたり頻繁に長期旅行を行った作家で、旅行と諜報活動、2つの世界大戦の最中、多くの小説を書いています。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ベルギー戦線の赤十字野戦病院に勤務、その後、スイス・ジュネーヴで諜報機関に所属して活動を行いました。公には劇作家としての活動を継続し、1915年には、大作『人間の絆』(上記の写真)が出版されましたが、戦時中であったため注目を集めることはありませんでした。しかし、同時期に執筆した戯曲『おえら方』は、1917年にアメリカで上演され、大きな成功を収めました。この時期に結婚し、一人娘ライザが誕生しています。

以下の写真は、モームが、1911年4月から1919年3月まで住んでいたロンドンの家で、この家に住んでいる間に、『人間の絆』を執筆しているようです。



【ブループラーク巡り】有名な作家編 - イギリス生活記


1926年には、モームは、フェラ岬(モナコやニースに近い高級住宅地)に、生涯の本拠地となる大邸宅を52歳で購入し、翌年には、夫人シリーと離婚しました。1936年、娘がロンドンで結婚し、家をプレゼントしています。

第二次世界大戦(1939年9月1日~1945年8月15日)勃発前後の時期、モームはイギリス当局の依頼によりフランスで情報宣伝活動に従事します。しかし、1940年6月のパリ陥落に伴い、邸宅を撤収してロンドンへ亡命しました。大戦中、リヴィエラの邸宅は枢軸軍と連合軍双方の軍隊に占拠され、激しく損傷を受けました。しかし、修復を経て1946年より再び居住を開始しました。

旅先では、シンガポールに建つラッフルズ・ホテルを「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」と絶賛し、長期滞在しました。シンガポールMRTのサマセット駅は、モームの名に由来するものです。

他に、タイ・バンコクのザ・オリエンタル・バンコクを高く評価し、こちらも長期滞在しており、現在同ホテルにはモームの名を冠したスイートルームが存在します。日本に来たときは、帝国ホテルに滞在していたようです。

『人間の絆』という小説の冒頭部で、幼少時に母メアリが42歳の若さで亡くなっており、この母への思慕は相当なものであることが描かれています。人間存在の不可解性、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる姿勢は、この小説の中で、「ペルシャ絨毯の哲学」として提出される、「人生は無意味で無目的」という人生観に現れています。

晩年は高齢による認知症を発症し、親族との間で被害妄想などのトラブルを起こしました。1965年12月暮れ、長期入院していたニースのアングロ・アメリカン病院から、自身の希望によりリヴィエラの邸宅へ戻り、間もなく死去しました。享年91でした。

コメント

このブログの人気の投稿