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11月, 2025の投稿を表示しています
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  The last supper 『最後の晩餐』 ※ 「最後の晩餐」とは?レオナルド・ダヴィンチの名作や意味・裏切り者の謎 | thisismedia イタリア北部ロンバルディア州の州都ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の当時食堂だった空間に描かれた、レオナルド・ダ・ヴィンチの大きな壁画作品です。 ダヴィンチのパトロンであったミラノ公爵、ルドヴィコ・スフォルツァの教会と修道院の改修工事の一部として依頼を受け制作し、3年で完成させました。 「最後の」と修飾詞がついているのは、イエス・キリストが処刑される前に食べた最後の食事だったからです。また、イエスが逮捕されたのがまさに除酵祭の日で、これはユダヤ人が除酵祭の日に食べる”過越の食事”をしている光景でもあります。 ユダヤ教における除酵祭とは、イスラエル人がエジプトから脱出する際、パンを膨らませる時間もなく急いで旅立ったことを記念し、「苦しみのパン」とも呼ばれる種なしパン(マッツァー)を食べ、過去の苦難を思い起こすという意味にあります。 キリスト教における除酵祭とは、新約時代において、イエス・キリストが十字架上で受けた苦難と犠牲を記念する祭りで、断食などの形でキリストの苦難に共に参加し、イエスが最後の晩餐を過越祭の夜に催し、その翌日(除酵祭の日)に十字架につけられて亡くなったことと関連づけられています。 イエス・キリストはパンを「自分の体」、葡萄酒を「自分の血」として弟子たちに与え、「これをわたしの記念として行え」と命じたと言います。 最後の晩餐には、「12使徒の中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した時の情景が描かれています。そしてその裏切りの人物とは、正面左手に座っているユダ(Judas)。 ユダはイエスのすぐ右隣に座り、他の使徒と異なるポーズをとっています。具体的には、身構えたり、テーブルに身を乗り出したりする他の使徒の動きに混じって、警戒するように顔をそむけ、手にはお金(銀貨)が入った袋を持っています。 イエスはユダヤ教の律法やエルサレム神殿の体制を批判しました。これは、ユダヤ教の指導者層から見ると神殿の権威を脅かすものでした。また、イエスの教えと行動は、一部の人々から「ユダヤ人の王」と見なされ、ローマ帝国に対する反逆と受け取られました。 ユダは、イエスを「銀貨30枚」という金銭...
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  Nürnberger Christkindlesmarkt ニュルンベルクのクリスマスマーケット 2025年のニュルンベルクのクリスマスマーケットのスケジュールは、11月28日から12月24日まで。 いつかクリスマスの時期に訪れてみたいです☆彡 ※ ニュルンベルクのクリスマスマーケット「クリストキンドレスマルクト」の魅力と、2025年のスケジュール / ドイツ便り ニュルンベルクのクリスマスマーケットは、17世記から開催されているように長い歴史を持つもの。 会場となるのは旧市街の中心部にあるフラウエン教会に面した広場で、 ドイツ三大クリスマスマーケットの一つで「世界一有名なクリスマスマーケット」として知られています。 ニュルンベルクは、11世紀半ばにハインリヒ3世(1017—1056)が城を築いてから、ドイツ各地と地中海を結ぶ交易の拠点となる帝国自由都市として発展しました。 またこの都市は、15-16世紀に最も繁栄し、アウクスブルクと並ぶドイツ・ルネサンス文化の中心地でもありました。 その頃、マイスタージンガー(職匠歌手)の活動が非常に活発で、彼らは本職として様々な手工業を営みながら、歌唱芸術にもいそしんでいたのです。 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(独: Die Meistersinger von Nürnberg)は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇として有名です。 ※ METライブビューイング 最新情報 Met opera: 壮大なラストシーンに感動!《ニュルンベルクのマイスタージンガー》みどころ マイスタージンガーは、ドイツ各地の宮廷を遍歴していたミンネゼンガー(吟遊詩人)たちが、中世貴族の没落に伴って都市に住み着いたのが始まりと考えられています。 また、 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた、 ニュルンベルク国際軍事裁判は  有名です。 第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(1945年11月20日 - 1946年10月1日)です。 日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つとなっています。 実際訪れてみると、戦争の跡形もなく、すっきりとした、活動的な商業都市に思えました。 ※ 物語の舞台ニ...
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Eisenach アイゼナハ ドイツ連邦共和国の都市で、テューリンゲン州に属します。音楽家、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの出生地としても知られ、同都市のヴァルトブルク城は、ユネスコの世界遺産に登録されています。 ※ アイゼナッハ①ドイツ人の心の故郷|Dito ネッセ川とヘーゼル川の合流地付近に位置し、古くより交通の要所でした。現在も、フランクフルト・アム・マインとライプツィヒを結ぶ鉄道網・アウトバーン網の中継地点に位置しています。街の背後には、テューリンゲンの森(テューリンガーヴァルト)と称される山岳地帯が広がります。 アイゼナハには、工業都市としての顔もあり、旧東ドイツ時代には、高級車ヴァルトブルクの生産地であり、東西ドイツの統一後は、オペル社の自動車工場が置かれています。街には自動車博物館があり、こうした歴史を知ることができます。 1067年、当時「王の道」と称された街道沿いに、ヴァルトブルク城が建てられました。13世紀初頭、この城の「歌人の広間」でミンネジンガー(吟遊詩人)による歌合戦が行われたとされ、リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ「タンホイザー」の題材にもなっています。 歴史上、アイゼナハは宗教改革の推進者マルティン・ルターと関係が深いです。1521年のヴォルムス帝国議会の決定により帝国追放となったルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒの保護を受け、ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を行いました。 1685年、この地でJ. S. バッハが生まれました。彼はリューネブルクに移り住むまで、少年期をアイゼナハで過ごしていました。現在も、J. S. バッハの実際の生家ではないが、バッハ一族が過ごしていた家が保存されています。 ※ 音楽の父『J.S.バッハ』の足跡を辿る旅♪ 現地7日間 いまや「音楽の父」と呼ばれるヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)ですが、没後は忘れ去られていたところ、メンデルスゾーンによって「発掘」され、世間で再評価されるようになったのは、彼の作曲技法が伝統的な音楽の集大成を作り、新しい音楽の扉も開いたからだと言われています。 また、ベートーヴェンからは、「彼は小川(ドイツ語でBach)ではなく、大海(Meer)と呼ばれるべきだ」と語ったように、高く評価されていました。  Eisenachアイゼナハ、Bachバッハと似...
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 OPHELIA オフィーリア ※ ミレイ《オフィーリア》の花② 描かれた花々|cha-bliss   『オフィーリア』を描いた13人の画家たち【ミレーか、ミレー以外か】 - 芸術文化交流事業・美術書籍・美術展企画・海外展覧会|IMS|クリエイトアイエムエス 戯曲『ハムレット』は、1601年ごろに発表された劇作家ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) – 1616年4月23日)の代表作の一つであり、物語は「デンマークの王子ハムレットが、父王を毒殺して王位に就き母を妃とした叔父への復讐劇」です。悲劇を得意としたシェイクスピアの作品の中でも『四大悲劇』に数えられる傑作で、その中でも最初に発表された作品であり、また最長の作品でもあります。 前のブログで、この毒殺に使われたのは、 イチイ(一位)の木の赤い実 の毒だと言われていると書きました。 オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』で、主人公ハムレットの恋人として登場します。彼女はポローニウスの娘で、ハムレットとの恋愛関係が物語の要素として重要な役割を果たします。しかし、物語が進むにつれてオフィーリアは悲劇的な運命に翻弄されていきます。  オフィーリアは、ハムレットが父王の死や母王の再婚に対する怒りと混乱に取り憑かれる様子を目撃します。しかしこれが彼女の悲劇の始まりでした。彼女は愛するハムレットが心の闇に包まれていく様子に苦しむ一方で、父ポローニウスや王とクイーンの陰謀に巻き込まれていきます。その結果、オフィーリアは精神的な病に苦しみ、最終的に自身の命を絶ってしまう運命をたどるのです。 オフィーリアの死は、彼女が周囲の出来事に翻弄され、愛する人々の運命に翻弄される無力さを象徴しています。彼女の悲劇的な運命は、『ハムレット』の中でも感情的な高揚を引き起こす要因の一つとなっています。 オフィーリアの死は、第4幕第7場で王妃ガートルードはオフィーリアが溺死したことを報告します。劇中でオフィーリアの最後は具体的に描かれず、ガートルードの説明で語られます。 QUEEN GERTRUDE: There is a willow grows aslant a brook, That shows his hoar leaves in the glassy ...
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  Masai Mara マサイマラ国立保護区 ケニア南西部、タンザニアとの国境沿いに位置する総面積1,812平方キロメートルの国立保護区で、 名称はマサイ族とマラ川(Mara River)に由来する。 特に、マラ川を渡るヌーの「川渡り」は、命がけのドラマチックな光景として有名です。 マサイマラのサファリでヌーの大群を見るなら、7月から10月にかけてがベストシーズンです。この時期に、タンザニアのセレンゲティからヌーやシマウマの大群がマサイマラに移動してきます。 ※ マサイマラ:ヌーの大移動 4 日間サファリ | GetYourGuide 私がこのマサイマラを訪れたとき、 個人的には、やはり、野獣の王であるライオンの姿が雄々しく、お昼寝中でしたが、間近で見れたのがとても印象的です。 マサイ族は、ケニア南部からタンザニア北部にかけての先住民で、伝統的には家畜の遊牧をしながら暮らしています。現在では都市部へ移り住んだり、観光業やガイドとして生計を立てたりする人も多く、多くの人がマサイ語の他にスワヒリ語や英語も話します。伝統的な文化や、ライオンを狩る戦士としてのイメージが観光客を引きつけており、観光業が重要な収入源の一つとなっています。 ※ Mara-Young-Men-Jumping-2012 - マサイ族 - Wikipedia   また、マサイ族は、垂直ジャンプ( マサイ・ジャンプ) を繰り返す独特の踊り文化で有名あり、民族のアイデンティティとして知られます。 村で一番高く跳べる男性が、村で一番綺麗な 女性をめとることができると言われます。 マサイ族の勇ましい姿にも感激しましたが、現地の女性の鮮やかな色彩の生地をまとった姿も、お洒落に思いました。 マーケットで見つけたかごバックは、現地では、「ママバック」と言ってましたが、お買い物に利用できる丈夫なバックという意味でしょうか。 日本でも見かけるので、調べてみたところ、 ケニアでは、サイザルバッックというそうです。サイザル麻をはじめ、バオバブやバナナの樹皮など自然素材で編まれたバスケットをキオンドと呼び、 穀物の運搬や保管に使われてきたようです。 かごを編む技術は母から子へ、何世代にも渡ってケニアの女性たちの間で受け継がれ高められてきました。 サイザルバッグは早くからヨーロッパ諸国で注目され、 お...
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 A Vase of Flowers 『タヒチの花瓶の花』 ※ Paul Gauguin | A Vase of Flowers | NG3289 | National Gallery, London ゴーギャン(1848年6月7日 - 1903年5月8日)の作品で、1896年に制作され、1891年と1895年にタヒチへ移住した時期に描かれたタヒチを題材にした作品です。 ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンは、1848年パリに生まれた、フランス人画家です。当初は、株式仲買人でしたが、1870年代に芸術家になることを決意します。印象派の画家たちと交友を深めていきます。 その後、やがて彼らの美学とは距離を置き、より象徴的で精神的な芸術表現を求めるようになります。冒険的な気質を持つゴーギャンは1891年にフランスを離れタヒチへと向かったのでした。 サマセット・モームは、実在の画家ポール・ゴーギャンを小説『月と六ペンス』でモデルにしてます。物語は、画業のために生活を捨てて渡ったタヒチで不遇の死を遂げ、後に名声を得たゴーギャンの生涯を、語り手の視点から描いています。( Amazon.co.jp: 月と六ペンス : サマセット モーム, Maugham,William Somerset, 瑞人, 金原: 本 ) ゴーギャンは生涯で2度、南太平洋のタヒチに滞在し、その土地の豊かな文化や自然をテーマに多くの作品を生み出しました。 ゴーギャンは1895年、2度目にして最後の滞在のためタヒチに到着した直後、この静物画を描きました。 エキゾチックな赤いブーゲンビリアとハイビスカス、白と黄色のプルメリア、白いティアレ、そして大きな青い葉が、暗い色の土鍋から溢れ出ています。少し見頃を過ぎたように見え、花がテーブルの上に落ちているものもあります。 白いティアレ・タヒチはタヒチの国花であり、クチナシの仲間です。甘く強い香りが特徴で、タヒチアン・ガーデニアとも呼ばれます。来客のおもてなしや結婚式で使われるほか、レイ(首飾り)や髪飾り、石鹸などの土産品にも利用されます。 ※ ティアレ・タヒチとは|育て方がわかる植物図鑑|みんなの趣味の園芸(NHK出版) 白いティアレ・タヒチの通常花弁は6~7枚ですが、稀に8枚の花弁で咲くこともあり、タヒチでは「花弁が8枚の花は幸福を運んでくる」という四葉...
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  Café カフェ 日本でもおなじみのカフェ。 個人的には、世界のカフェ巡りをしたわけではありませんが、チェコ共和国の首都プラハのカフェが、一番素敵だったのを思い出します。 プラハには、ハプスブルグ家が統治していた時代からの歴史的なカフェがあり、今も、市民に愛されている存在となっているようです。 ※ 100年の歴史をプラハに刻むアールデコの華麗なカフェ 西暦8 0 0~9 0 0年頃のエチオピアに、ヤギ飼いのカルディという少年がいました。いつものようにヤギの群れを連れていると、ヤギたちは茂みに入って赤い小さな実をかじり、元気いっぱいに踊りはじめました。 次の日も同じことが起こりました。好奇心をそそられたカルディは、キラキラと光る深緑色の葉を噛んだ後、ほんのり甘い実とその中の種を食べてみました。みるみる元気が湧いてきたカルディは、思わずヤギたちと一緒に踊りはじめました。 その様子を眺めていた僧侶はカルディから赤い実の話を聞き、実をいくつか摘んで修道院に持ち帰りました。そして、その実を砕いて粉末にし、熱い湯に溶いて飲んでみたところ、長い夜のお祈りの間いつもより元気なことに気がつきました。そこで、他の僧侶にもこれを飲ませました。僧侶たちは、エネルギーを生み出し、集中力を高めるこの実を「神の贈り物」と称えました。 エチオピアからアラビア半島の南端にあるイエメンとの交易によって、コーヒーも広がっていきました。1400年代後半、イエメンでは、コーヒー豆が焙煎された状態で煮出され、 「カフワ」(”眠りを防ぐもの”という意味)と呼ばれる飲み物が作られました。 これは、アラビア語でコーヒーを意味する言葉であり、コーヒーの英語の「coffee」やフランス語の「café」の語源となった言葉です。古代アラビア語では「ワインや香りのするお酒」を意味し、お酒が禁じられていたイスラム文化圏で、その代用品として飲まれるようになりました。 ※ コーヒーの歴史。コーヒー文化がヨーロッパに根づくまで|スターバックス コーヒー ジャパン 1505年、コーヒーの木がイエメンからセイロン(現在のスリランカ)へ伝播したとされていますが、スリランカで本格的なコーヒー栽培が行われるようになったのは、1658年にオランダ東インド会社が苗木を持ち込んでからという説が一般的です。 1536年、コーヒー豆はオス...