Paraty
パラチー
パラチー(ポルトガル語)は、ブラジルのリオデジャネイロ州の都市で、歴史的な建築と美しい海岸で有名です。
海岸はコスタヴェルデ(緑の海岸)と呼ばれ、街の歴史的中心部と大西洋岸森林の4つのエリアは、2019年にユネスコ世界遺産リストに「パラチーとグランジ(ポルトガル語版)」という名称で登録されてます。その領土の80%以上が保護団体によって保護されています。
パラチーの村は1597年に設立され、1667年にポルトガルの入植者によって、グアヤナのインディアンが住む地域に町として正式に設立されました。現在の街のある場所に住んでいたグアヤナの人々は、この地域全体を「パラチー」(魚〈ボラ〉の川)と呼んでいました。
1696年に、近くで金鉱山が発見された後、パラチーはリオデジャネイロへ、そして、そこからポルトガルへの金の輸出港になり、その後のゴールドラッシュにより、1200 kmの道路である「カミーニョ・ド・オウロ」(黄金の道)が建設されました。
19世紀初頭のコーヒー貿易が盛んだった頃、パラチーは、主要なコーヒーの積み出し拠点として経済を牽引しました。
当時のリオデジャネイロは、ポルトガル王室の拠点であり、事実上のポルトガル王国の首都でした。1808年にポルトガルがナポレオン軍の侵攻を受けたことで、ポルトガル宮廷がブラジルに移り、リオデジャネイロがその本拠地となったためです。
リオデジャネイロは、ヨーロッパ外で唯一のヨーロッパの国の首都でしたし、単なる首都としての地位だけでなく、ヨーロッパとの関係を深め、1822年のブラジルの独立と文化的な発展の重要な転換点となった都市でした。
1817年5月13日、リオデジャネイロで、ポルトガルのブラガンサ王朝のペドロ1世とハプスブルク家のマリア・レオポルディナが代理結婚しました。
当時のハプスブルグ家のオーストリアのウィーン宮廷では、前に書いたザッハトルテは、ハプスブルグ家の御用達で、晩餐会や舞踏会の席ではデーメルの菓子職人が駆り出され、当時のウィーンの上流階級の女性たちはデメルの菓子を好んでいるような状況でした。
そのような状況の中、同年11月5日、ウィーンからハプスブルク家のマリア・レオポルディナが、リオデジャネイロに到着したとき、彼女はすぐに、ペドロと恋に落ちました。そして、代理結婚の誓約を追認した次の日に結婚のミサがのちに挙行され、その後、2人の間には7人の子どもが生まれました。
また、レオポルディナの到着により、多くのヨーロッパの博物学者がブラジルを訪れるようになり、国立博物館の設立につながるなど、文化的な発展も促されました。また、彼女の助言は、ブラジルの独立宣言に大きな影響を与え、ペドロは彼女を摂政に指名するなど、彼女の政治的役割が大きくなっていきました。これが後のブラジル独立における重要な出来事につながりました。
しかし、レオポルディナは自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の暴力により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に29歳で死去しています。
当時のパラチーの市旗は、ポルトガルのブラガンサ王朝の「緑」とオーストリアのハプスブルク家の「黄色」を象徴して、ペドロ1世のブラガンサ家とマリア・レオポルディナのハプスブルク家がそれぞれの色の象徴であり、独立したブラジルを設立した王室の伝統を表していました。
現在のパラチーの市旗は、黄色(金)は《強さ》、銀は《無垢》、赤は《勇気》、青の《静けさ》、緑は《ブラジルの豊かな資源》の色を表します。
※Pousada Literária de Paraty - パラティ - ミシュランガイド
パラチーでは、毎年大規模な文学祭が開催されます。
写真の「ポウサダ・リテラリア・デ・パラチー」は、美しく修復された植民地時代の邸宅を利用した建物で、このイベントの公式宿泊施設となっているようです。
コメント
コメントを投稿