Villa et Jardins Ephrussi de Rothschild ロスチャイルド邸 ※南仏のロスチャイルド邸から眺めるコートダジュールの海 | la carte de voyage 以上は、南仏ニースから10kmのサンジャンカップフェラ半島ある、20 世紀初めに建てられた、ロスチャイルド家のお洒落な邸宅で、地中海を望むテーマ別の庭園が 9 つあります。 お気に入りのブログから見つけました。 ロスチャイルド家の起源は、18世紀に遡ります。 フランクフルト出身のユダヤ人銀行家マイヤー・アムシェル・ロートシルトが事業を拡大し、その5人の息子をロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに派遣したことで、世界的な国際金融ネットワークを築き上げました。 なぜそんなことをしたかと言うと、当時ヨーロッパは戦争があちこちで起こっていたので、いつ自分の国が負けて財産を没収されるかわからなかったので、自分の子供を別々に住まわせるということは、その危険を逃れるためのユダヤ商人の生き残りの知恵だったと言われています。 19世紀には、ヨーロッパ最大規模の私有財産を持つ一族となり、歴史の大きな転換点において重要な役割を果たしたと言われています。 現代では金融業だけでなく、不動産、鉱業、エネルギー、農業、ワイン醸造、非営利団体など、多岐にわたる分野で活動しています。 この邸宅の所有者は、モーリス・エフルシ夫人で、ロスチャイルド家の銀行家である男爵モーリス・ド・エフルスの妻であるベアトリス・ド・ロスチャイルドのことです。 エフルシ夫人は、生まれながらにして、そして結婚によって、その世紀における最も偉大な収集家の一人となりました。1907年から1912年にかけてのヴィラ建設には、あらゆる専門家や商人、そして家族の友人たちの才能が注ぎ込まれました… ベアトリスは 1864 年に生まれました。彼女は、銀行家で有名な美術品収集家であった男爵アルフォンス・ド・ロスチャイルドと、同じくロスチャイルド家出身だがイギリス系のレオノーラの娘でした。 ベアトリス・ド・ロスチャイルドは、その時代で最も豪華な2つの邸宅に住んでいました。パリでは、コンコルド広場の北東の角にあるサンフロランタン通りの18世紀の宮殿、そして田舎のフェリエールでは、祖父のジェームズが建てた巨大な城に住んでいまし...
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Paraty パラチー ※ グランデ島 - ブラジル 世界遺産の旅【HIS】 パラチー(ポルトガル語)は、ブラジルのリオデジャネイロ州の都市で、 歴史的な建築と美しい海岸で有名です。 海岸はコスタヴェルデ(緑の海岸)と呼ばれ、街の歴史的中心部と大西洋岸森林の4つのエリアは、2019年にユネスコ世界遺産リストに「パラチーとグランジ(ポルトガル語版)」という名称で登録されてます。 その領土の80%以上が保護団体によって保護されています。 パラチーの村は1597年に設立され、1667年にポルトガルの入植者によって、グアヤナのインディアンが住む地域に町として正式に設立されました。 現在の街のある場所に住んでいたグアヤナの人々は、この地域全体を「パラチー」( 魚〈ボラ〉の川) と呼んでいました。 1696年に、近くで金鉱山が発見された後、パラチーはリオデジャネイロへ、そして、そこからポルトガルへの金の輸出港になり 、その後のゴールドラッシュにより、1200 kmの道路である「カミーニョ・ド・オウロ」 (黄金の道) が建設されました。 19世紀初頭のコーヒー貿易が盛んだった頃、パラチーは、主要なコーヒーの積み出し拠点として経済を牽引しました。 当時のリオデジャネイロは、ポルトガル王室の拠点であり、事実上のポルトガル王国の首都でした。1808年にポルトガルがナポレオン軍の侵攻を受けたことで、ポルトガル宮廷がブラジルに移り、リオデジャネイロがその本拠地となったためです。 リオデジャネイロは、ヨーロッパ外で唯一のヨーロッパの国の首都でしたし、単なる首都としての地位だけでなく、ヨーロッパとの関係を深め、 1822年の ブラジルの独立と文化的な発展の重要な転換点となった都市でした。 1817年5月13日 、リオデジャネイロで、ポルトガルのブラガンサ王朝の ペドロ1世と ハプスブルク家の マリア・レオポルディナが 代理結婚 しました。 当時の ハプスブルグ家の オーストリアの ウィーン宮廷 では、 前に書いたザッハトルテは、 ハプスブルグ家の 御用達で、 晩餐会や舞踏会の席ではデーメルの菓子職人が駆り出され、当時のウィーンの上流階級の女性たちはデメルの菓子を好んでいるような状況でした。 そのような状況の中、同年11月5日、 ウィーンから ハプスブルク家の マリア・レオポルディナ が、リオ...
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Sacher-Torte ザッハートルテ ※ Café Sacher Wien, Historisches Café in Wien | Hotel Sacher ザッハトルテは、こってりとした濃厚な味わいを特徴とする、ウィーンのホテル・ザッハーの名物菓子であり、「チョコレートケーキの王様」と称されます。 アプリコットジャムをサンドまたは表面に塗り、艶やかなチョコレート(糖衣)でコーティングした濃厚なケーキです。しばしば口直しとして砂糖を入れずに泡立てた生クリームを添えて食べます。 1832年に、クレメンス・メッテルニヒに仕える料理人の一人だったフランツ・ザッハーが、「飽食した貴族たちのために新しいデザートを作れ」というメッテルニヒの要望に応え考案しました。 ザッハトルテは大変に好評で、翌日にはウィーン中の話題になったといいます。当時、ザッハーはまだ16歳で下級の料理人にすぎませんでしたが、ザッハトルテの成功から頭角を現し、ザッハトルテはフランツのスペシャリテ(特製料理)として好評を博しつづけました。後に次男のエドゥアルトがホテル・ザッハーを開業すると、ザッハトルテはそのレストランとカフェで提供されました。 レシピは門外不出とされたが、3代目のエドゥアルト・ザッハーのときにホテル・ザッハーが財政難に陥ったのをきっかけに、資金援助をしたウィーンの王室ご用達のケーキ店デメルが代償にザッハトルテの販売権を得ました。 その後、ハンス・スクラッチの『ウィーンの菓子店』という本にまで秘密のレシピは掲載されてしまい、ついにはホテル・ザッハー側がデメルを相手取って商標使用と販売の差し止めを求めて裁判を起こしました。 7年に及ぶ裁判の結果、ホテル・ザッハーにもデメルにも双方にザッハトルテの販売を認める判決が下り、デメルのものは「デメルのザッハトルテ(Demel's Sacher-torte)」として、ホテル・ザッハーのものは「オリジナルザッハトルテ(Original Sacher-Torte)」として売ることになりました。 ※ ザッハトルテ4号 | デメル・ジャパン株式会社 ザッハーのものはアンズのジャムを内部にも挟むのに対し、デメルのザッハトルテは表面にのみ塗るという違いがあります。 ホテル・ザッハが、ザッハトルテの発祥の地とされていますが、味ではデメルに軍配が上がっていま...
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Alice's Shop アリスショップ ※ Alice's Shop | The Original Alice in Wonderland Shop アリスショップ(Alice's Shop)は、オックスフォード、セント・オルデイツ通り83番地に位置するイギリスの商店です。 この店はルイス・キャロルの児童小説『鏡の国のアリス』(1871年)に描かれたことで有名になり、現在も当時の外観を保ったまま、アリスグッズの専門店として開店しています。 アリスショップはオックスフォード大学の学寮クライストチャーチの入り口・トムタワーの真向かいにある、600年の歴史を持つ建物を使用した店で、キャロルが作品を書いた当時は「シープショップ」(ヒツジの店)という名の雑貨店でした。 「ヒツジの店」は同学寮に住んでいたキャロルとアリス・リデルの行きつけの店であり、アリスはしばしばキャロルといっしょにこの店を訪れて好物のバーリーシュガーを買っていた。当時の店主は羊の鳴き声のようなしわがれ声の老女であったという。 アリス・リデルは、オックスフォード大学クライストチャーチの学寮長となるヘンリー・ジョージ・リデルとその妻ロリーナの間の次女です。 ルイス・キャロルは、オックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジ出身で、イギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人です。キャロスは、リデル家の少女たちを撮影してまわり、リデル夫人から撮影をやめるように忠告を再三にわたって受け続けましたが、撮影し続けました。 1872年に出版された『鏡の国のアリス』の第5章「羊毛と水」では、この店を「The Old Sheep Shop」として登場させ、薄暗くも不思議な雰囲気の小さな店を舞台にしたエピソードがあります。この店を描いた2つの挿絵は、明らかに「アリスの店」から取られています。 物語の中で、アリスは年老いた羊が経営する薄暗い小さな店に迷い込みます。この店は本物のヒツジ(前章では「白の女王」であった)が店番をしていました。 その店は「ありとあらゆる奇妙な物でいっぱい」でした。アリスは棚の上の物を見ると、それらが浮かんでいくことに魅了され、目で追って一箇所に集めようとします。しかし、予想外に、それらは天井を突き破って消えてしまうのです!つまり、アリスが品物をよく見ようとすると決ま...
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York Castle ヨーク城 ※ 【シャンブルズ!】イギリス・ヨークのぜひ訪れてほしいおすすめ観光スポット9選! - だっちの旅程表 -Dacchi's Itinerary- 写真のお城の正式名称は「ヨーク城」ですが、一般的には「 クリフォードの塔」 として知られています。 クリフォード塔 は、かつてヨーク城の一部であり、現在は城跡として残っています。 ヨーク城は、イギリスのヨーク市にあり、フォス川の北西側に位置し、歴史的に重要な役割を果たしてきました。 ローマ時代には要塞として、その後ノルマン征服時代には重要な城として使用されました。 中世には王室の居城として、また牢獄としても使用されました。 現在のクリフォード塔は、13世紀に再建されたもので、円形の塔と周囲の城壁の一部が残っています。 塔からは、ヨークの街並みを一望できます。 ヨーク (York)の名前の由来は、 「イチイ の木」(Yew Trees) といわれています。 紀元後71年にローマ人がこの街を建設したことに始まります。 ローマ人はこの街を、"イチイの木のある場所 "を意味するケルト語に由来する "Eboracum "と呼びました。 ローマ人は、ウーズ川とフォス川の合流点に位置するこの街の戦略的重要性を認識し、周囲の湿地帯から街を守るために強固な要塞を築きました。 その後、アングロ・サクソン時代に「エオフォウィック(Eoforwic)」、バイキング時代には「ヨーウィック(Jórvík)」と呼ばれるようになり、最終的に現在の「York」となりました。 ※ 北海道で見かけるオンコの実とは?食べるのは危険?注意点を解説|PREZO(プレゾ) - 北海道のお取り寄せグルメと産直通販 イチイ (一位 、 水松 )は、 秋に実る赤い実(仮種皮)は、食用にでき、生長が遅く年輪が詰まった良材となり、弓の材としてもよく知られてます。 ローマ時代、弓は主要な武器の一つで、狩猟や戦争で広く使われていました。イチイは、その強度と弾力性から、特に長弓の材料として珍重されました。 また、イチイは、ケルト信仰におけるドルイドの祭器としても使われ、北欧神話では狩猟神ウルの武器のモデルにもなっています。 私が知っているのは、「オンコの実」という呼び方で、イチイ(一...