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6月, 2025の投稿を表示しています
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 Le Taillevent タイユヴァン ※ Le Taillevent - Paris - ミシュランガイドレストラン 以前、パリに観光に訪れたときに、ランチだけでも...と思い、こちらのレストランを予約しました。 タクシーで向かったので、場所がうろ覚え ですが、確か、賑やかなシャンゼリゼ通りから、少し小道に入ったところにあったと記憶します。 厨房に一番近い席に案内され、厨房の中の緊張感を感じながら、店内のモダンな内装と、洗練されたお料理に満足しました。ビジネスランチに利用しているビジネスマンだと思われる方々が、食後に、葉巻を吸っている姿を目にして、感服しました。 「LE TAILLEVENT(ル・タイユヴァン)」 は、1946年、フランス・パリ9区にアンドレ・ ヴリナ氏がオープンしました。 パリで最も伝統のあるレストランの1つに数えられます。その料理、サービス、そしてワインのセレクションは世代を超えて評価されており、現在パリで最も予約の難しいレストランの1つとして知られています。 店名「タイユヴァン」の由来は、中世にまでさかのぼります。1380年、フランス語で書かれた最古の料理本『ル・ヴィアンディエ』がギョーム・ティレルというグランシェフによって書かれました。 ギョーム・ティレルは、通称「タイユヴァン(Taillevent)」と呼ばれていたと言われていました。フランス語でtailleは「切る」、ventは「風」という意味です。 威勢の良い人という意味合いから「タイユヴァン(Taillevent)」=「風を切る」というあだ名で呼ばれていたということが有力視されています。 フランス料理の出発点となった、この伝説の料理人のあだ名をとり、レストラン「タイユヴァン」の名は付けられました。 その後タイユヴァンは、1973年から33年間、三ツ星レストランの座を守り続け、世界的名店の一つとして名を連ねるようになりました。 かつてモルニー公爵の私邸(19世紀)だったこの静かで親密な空間は、外界から隔絶されたような感覚をもたらします。 現在はジュリアーノ・スペランディオシェフ(以前は「ル・クラレンス」でクリストフ・ペレのスーシェフを務めていました)が厨房を率いています。 メニューは、小規模漁業で獲れたターボット、アンズタケ、夏トリュフ、「タイユヴァン伝統」のラングスティー...
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  Montagne Sainte-Victoire サント・ヴィクトワール山 ※ポール・セザンヌ (1839年 - 1906年 )  こちらは、フランス南部のエクス=アン=プ ロヴァンスの市街地の東、市域の南東部に位置します。 この山は、エクス=アン=プロヴァンス出身の画家、セザンヌ(1839 - 1906)の家の近くから見ることができ、彼の絵画のシリーズ(44点の油画と43点の水彩画)で取り上げられ、多くの人から慕われています。 エクス=アン=プロヴァンスは、フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の古都です。略称はエクス(仏: Aix)です。 プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっています。 ラテン語のアクア(水)から転訛したエクスの名が示すとおり、街中の至る所に大小の噴水が湧き出しています。 中でもミラボー大通り(Cours Mirabeau)にあるロトンド大噴水、温泉の湧く苔むした噴水、ルネ王の噴水、マザラン地区にある4頭のイルカの噴水、旧市街の市庁舎の噴水、アルベルタの噴水など一見に値するものが多々あります。 「セザンヌのアトリエ」を訪れましたが、エクス=アン=プロヴァンスのかな賑やかな街の雰囲気とは異なって、閑静な丘の上にあり、リンゴなどの静物画を制作した場所であることがよく分かります。 宿泊したヴィラ ガリシ ホテルも、アトリエの近くで、19世紀の邸宅を改装した、3ヘクタールの庭園に囲まれた静かな場所にあり、絵を描きたくなるセザンヌの気持ちが分かりました。 帰りがけ、マルセイユ空港に向かうタクシーの中で、運転手さんが、車窓から見える、サント・ヴィクトワール山について、説明をしていました。セザンヌと同じく、地元の人に愛されている誇り高き山なのですね... 参考: エクス・アン・プロヴァンス【フランスの美しい街】 – 世界の最も美しい村をめぐる
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 Nice ニース 地中海・コート・ダジュールに面する、世界的に有名なリゾート地・観光都市です。 ニースは、地中海性気候であり、一年を通じて気候は安定していて、夏はよく晴れ乾燥しており、まとまった雨が降るのは月に1、2回程度です。そのため欧州各地(から夏のバカンスに訪れる者が多く、冬も比較的温暖で気候が安定していることから、旅行者は1年中絶えません。 ※ プロムナード・デ・ザングレの魅力・地図・行き方【JTB】 ニースは、紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、紀元前2世紀頃よりケルト系の住民が定住しました。 歴史的にイタリア文化圏に属した時代が長かったため、言語・文化の面ではフランスよりイタリアに近い特徴があります。 イタリア統一運動の英雄として知られるガリバルディは、1807年、現在のフランス領ニースで生まれました。当時、ニースはサルデーニャ王国領でしたが、フランス革命の影響で一時的にフランス領となりました。 18世紀後半にはイギリス人がニースで冬を過ごすようになり、富裕なイギリス人の中には、地中海に沿った遊歩道の建設計画を提案する者もいました。 19 世紀にはヨーロッパのエリートたちの保養地となり、長年にわたって多くの芸術家たちのゆかりの地になっています。 そのひとりであるアンリ・マティスの生涯にわたる絵画コレクションは、マティス美術館に収蔵されています。マルク・シャガール美術館には、シャガールの主な宗教的な作品が展示されています。 サガンの小説『悲しみよこんにちは』では、17歳の少女セシルがコート・ダジュールの別荘で過ごす一夏が描かれています。 お天気の良い夕暮れ時に、ニースとモナコの中間に位置し、海抜420mの断崖の上にそびえ立つ、エズ村を訪れました。 高いところから 見下ろすと、 真っ青なコート・ダジュールは、 海がキラキラと輝いていて絶景でした。 海岸沿いは、「イギリス人の散歩道」(プロムナード・デ・ザングレ)があり、小石の浜として知られています。のんびりとお散歩しても気持ちが良いです。 ニースの郷土料理は、日本でもおなじみの、「ラタトゥイユ」と「ニース風サラダ」です。 海岸沿いのレストランで、アサリを使ったパスタ「ボンゴレ」を頂きましたが、美味しかったと記憶します。 日本の熱海ともどこかしら似たような雰囲気の場所です。 参考: 彩り鮮やか...
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 Aimez-vous Brahms? ブラームスはお好き 1959年に発表されたフランスの作家フランソワーズ・サガン作の小説です。 ※ ブラームスはお好き (新潮文庫) | フランソワーズ サガン, Francoise Sagan, 朝吹 登水子 |本 | 通販 | Amazon サガンがデビュー作『悲しみよこんにちは』(Bonjour Tristesse )から5年後の23歳の時に書いた作品で、 ストーリーはパリを舞台に3人の男女が織りなす恋物語です。 題名の「ブラームス」は作曲家のヨハネス・ブラームスのことで、「ブラームスはお好き」は、シモンがプレイエル・ホールでのコンサートにポールを誘う手紙の中で「ブラームスはお好きですか?」とさりげなく問う一文から。 若くして1度離婚した後、現在は装飾デザイナーの職につき経済的に自立した39歳の独身女性ポールが主人公です。 互いに束縛せず、同棲もせず、お金の貸し借りもなし、という約束のもと、同じ独身の中年男性ロジェと交際を続けてきたポールはある日、若く心優しい25歳の青年シモンに出逢います。 ポールもロジェと同じく何をしても良いという約束だが、ロジェの気まぐれさに寂しさを感じ、でも約束のため言えず孤独だったポールは、ロジェを愛しながらもいつしかロジェとは正反対の繊細なタイプで、自分に積極的にアプローチしてくるシモンに少しずつ惹かれていきます。 時には寂しさに涙しながらも長い関係を築いてきたロジェか…、裏表のないストレートな気持ちで自分を求めて来る年下のシモンか…、ポールの心は揺れ動きます。 それまでは仕事中心で他の若い女達と浮気をし、ポールをあまり省みなかったロジェは、シモンの存在を知り焦ります。 しかし、約束で深入りせず、今の若い浮気相手のメージーとも関係を続けます。やがて、ポールとシモンは同棲を始めますが...。 高校生の時に読んで以来ですが、 『悲しみよこんにちは』も併せて、 メランコリックな印象の小説だったと思います。 近日Netflixで配信されている、『エミリー、パリへ行く』というドラマがありますが、「ブラームスはお好き」の現代版で、似たような題名にすると、「パリはお好き?」になるのでしょうか。 こちらは、2020年に配信されたアメリカ合衆国のテレビドラマシリーズで、シカゴからパリに移住したエミリーの生...
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  L'abbaye de Fontevraud フォントヴロー修道院 フランス・メーヌ=エ=ロワール県フォントヴロー=ラベイ近郊にある修道院です。 巡回説教師ロベール・ダルブリッセルによって創建されました。 訪れたときの印象では、イギリス王家の人たちのお墓があることから、イギリスとの関係が深かった事や、修道院のキッチンが残されていて、かなり大人数の食事の支度がなされていた事が窺えました。 修道院の創設初期には、イギリスの王家、プランタジネット家が、修道院の有力な後援者でした。 その背景として、修道院は、男女の聖職者が分かれて生活を送っていて、修道会は外国でも成功をおさめていました。多くのフォントヴロー派修道院がイングランドにも建てられました。 また、修道会の指導者は女性であるべきだとして、初代院長としてペトロニーユ・ド・シュミエ(Pétronille de Chemillé)を任命し、彼女の後継者となったのはイングランド王ヘンリー2世の伯母にあたるイザベル・ダンジューでした。 さらに、イザベル・ダンジューが院長であった時代、ヘンリー2世の妃アリエノール・ダキテーヌが夫亡き後に尼僧としてフォントヴローにいたことも関係しています。 このような措置が、フランス・ブルボン王家を含む多くの高貴で裕福な尼僧を年中惹きつける要因となりました。 ルイーズ・ド・ブルボンは自らが院長を務めていた間、自分が手を加えたものの多くに自身の紋章を残しました。 政治的には、フランス国内の領土をめぐって、イギリス王家とフランス王家は対立関係にありました。統治を巡る争いや、両王家の強引な結婚が元となって蜂起が起こっています。 この修道院には、イギリス王家のお墓もあり、以下、前方は、リチャード1世、後方はイザベラ・オブ・アングレームの墓になります。 リチャード1世:プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド国王(在位:1189年 - 1199年) イザベラ・オブ・アングレーム:プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)ジョン(リチャード1世の弟)の王妃 その後、フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)までは、国内最大の権力を有する修道院として知られました。 1804年にナポレオンが監獄として利用したことから、破壊...
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 Les Génies des Arts 芸術の天才 フランスの画家、フランソワ・ブーシェ(1703-1770年)の1761年の作品です。 ※ 美術館訪問記- 589 アンジェ美術館、Angers 18世紀のロココ様式の明確な反映であり、その装飾的な活気、その繊細さ、官能的な美しさへの強調を特徴としています。 色彩は、穏やかで調和の感覚を呼び起こすパステルトーンの優位性を備えたソフトパレットを使用しています。 フランソワ・ブーシェは、ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描きました。 多作家として知られ、生涯に千枚以上の絵画、百枚以上の版画、約一万枚の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台装飾の仕事をこなしました。 こちらの作品は、フランスのアンジェ美術館のコレクションです。 アンジェ美術館は、アンジェの貴族ピエール=ルイ・エヴェイヤール・ド・リヴォワ侯爵をもとに、1801年に開館しました。 5世紀に建てられたバロック様式の美しい館バロー邸を活用しており、パリのルーヴル美術館同様フランス革命が起こった1797年以降に様々な美術品が集められた歴史ある美術館でもあります。 約3000平方メートルの展示スペースでは、14世紀以降の絵画や彫刻350点、先史時代の考古学的遺物500点を超えるコレクションを見ることが出来ます。 特にこの街の貴族リヴォワ侯爵が蒐集した一連の絵画は評価が高く、フラゴナール、ワトー、シャルダンなど美しく詩的な描写で18世紀フランス貴族を魅了したロココ美術は見応えがあります。 ロワール川流域にある、アンジェの街にある元貴族の邸宅で、お洒落な絵画のコレクションがみられます。
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  Wars of the Roses 薔薇戦争 日本でも人気のある薔薇ですが、国花として薔薇を採用しているイギリスでは、戦争の名前にまで登場してきます。 薔薇(バラ)戦争とは、15世紀、百年戦争(1337年から1453年にかけて、イングランドとフランスの間で断続的に続いた戦争)終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱で、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言えます。 また、フランスのノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを征服したノルマン・コンクエストの後、アンジュー帝国を築いたプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争でもあります。 最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家のヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家のエリザベス王女と結婚してテューダー朝を開きました。 ランカスター家を支持する者が赤バラを摘み取り、ヨーク家を支持する者が白バラを摘み取って両家が袂を分かちあった為、この戦争はバラ戦争と呼ばれています。 ヘンリー・チューダーはヘンリー7世として即位し、両家の和解の印に赤バラと白バラを重ねた図柄をチューダーローズとしてチューダー王朝の紋章とします。 ランカスター家の赤いバラは「ロサ・ガリカ・オフィキナリス」で、エミールガレの作品にも使われたバラと同じ品種になります。オールドローズ最古の系統です。 「燃えるように赤いばら」と古くから栽培の記録が残る系統で、その歴史は約2000年前、古代ローマの時代にまでさかのぼります。ヨーロッパを代表する原種といえ、赤ばらの祖としても重要な系統です。 この原種がよく見られたフランス南部の地方を、古くはガリア地方と呼んでいたことからガリカ・ローズの名が生まれました。 ヨーク家の白いバラは、「ロサ・アルバ」だと言われています。聖母マリアがヴェールをかけたばらは白いばらになったという伝説も残る神秘のバラです。 生粋の原種ではなく交雑で生じたものと推定されています。交配親はロサ・ガリカとロサ・アルウェンシス、またはロサ・ダマスケナとロサ・カニナの交雑で生じたなど諸説あります。 はっきりとした記録はルネッサンス時代の名画「ヴィーナスの誕生」などに見られ、画面に描かれた白いばらはアルバセミプレナで...
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  Peter’s father ピーターのおとうさん(マグレガーおばさんにパイにされた) ※ ピーターラビット™公式サイト 日本でも人気のピーターラビットですが、そのお話自体は、なかなかシビアで自然界の厳しい掟の中で暮らすラビットたちの様子に驚かされます。 「ピーターラビットのおはなし」では、 ” Your Father had an accident there; he was put in a pie by Mrs. McGregor” ピーターのおかあさんは、子どもたちに「マグレガーおじさんの畑にだけは、行ってはだめですよ。お父さんはね、マグレガーおばさんに、パイにされてしまったのですからね」と、話しました。 と書かれています... イギリスの 絵本作家のビアトリクス・ポターは、 英国で最も自然が美しいといわれる湖水地方のウィンダミア湖に近いニアソーリー村に移り住み、ヒル・トップというコテージで、「ピーターラビット」シリーズを書き上げました。 ポターの時代の英国は産業革命の真っただ中。近代化の波は湖水地方にも押し寄せようとしていて、ポターはベストセラーとなった絵本の売り上げで土地を少しずつ購入し、湖水地方の自然を開発や破壊から守る活動を続けました。 今に残るピーターラビットの絵本さながらの美しい景観は、彼女の努力の賜物ともいえます。 2017年には、 このいたずらうさぎの故郷、英国イングランド北西部の湖水地方は、それらが織り成す文化的景観が世界遺産に登録されました。 2018年には、「ピーターラビット」の映画が公開され、ヒットしました。 湖水地方をウォーキングしたとき、今にも、はじけんばかりの青いジャケットを着たピーターラビットが、ヒョッコリと出てきてもおかしくない光景だと思いました。 参考: イギリス・湖水地方にあるピーター・ラビット作者のアトリエ「Hill Top」のアクセス方法と楽しみ方 | 地球の歩き方
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  Macbeth マクベス 1606年頃に成立したウィリアム・シェイクスピアによって書かれた戯曲です。 ※ 3人の魔女と出会ったマクベスとバンクォー(1855年、テオドール・シャセリオー画) 勇猛果敢だが小心な一面もある将軍マクベスが妻と謀って主君を暗殺し王位に就くが、内面・外面の重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れます。 『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』と並ぶシェイクスピアの四大悲劇の1つで、その中では最も短い作品であり、最後に書かれたものと考えられます。 実在のスコットランド王マクベス(在位1040年–1057年)をモデルにしています。 戯曲でのマクベスは、主君を殺して王位を奪い、暴政を行って短期間でその報いを受けて滅ぼされる悪人として描かれているが、実際のマクベスは17年間の長期にわたって王位にあり、また当時は下剋上がしばしば見られる時代であって、マクベスの行為も悪行とは言えず、統治の実績もあり、戯曲に見るような暴君ではありませんでした。 シェイクスピアの戯曲『マクベス』では、マクベスは「コーダーの領主 (thane)」と呼ばれ、コーダー城が主な舞台となっている。ただしこれは史実とは異なります。 コーダー (Cawder, Calder, スコットランドゲール語 Caladar) は、スコットランドの村で、ハイランド州、インヴァネス近郊に位置します。 14世紀に建造されて以来、ずっとコーダー伯 (Earl Cawdor) の居城だったコーダー城 (Cawdor Castle) があり、ミノタウロスの像の置かれた、生垣を迷路に見立てた庭園があります。 実際訪れたことのあるこの庭園は、英国式庭園で、秘密の花園のような素敵な庭園でした。 シェークスピアの時代も、このお城と庭園を訪れて、「マクベス」のような戯曲を思いついたのかと想像しました。
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  Edinburgh International Festival エディンバラ国際フェスティバル スコットランドのエディンバラで開かれる公演藝術(performing arts)の祭典であり、8月から9月にかけて3週間にわたって開催され、主催者によって招待された、オペラ、演劇、音楽(特にクラシック音楽)、ダンスなどの分野の世界一流の芸術家が公演を行います。 元々、「人間精神の開花の礎を提供し、スコットランドと英国とヨーロッパの文化的生活を豊かにするため」という楽観主義的な目標のもとに開催されました。 以前に訪れたときは、日本で、コンサートやバレエのチケットを購入してから見に行きました。 世界一流の芸術家の公演を短期間で一挙に楽しめるので、お得感があります。 スコットランドでは、男性でも、キルト(タータンチェックのスカート)を着用するのが、正装になり、訪れたときにたまたま見かけた街中の結婚式でも、新郎がキルトを着用していました。 期間中は、エディンバラ城内でミリタリー・タトゥー(軍楽隊の分列行進のショー)が毎夜催され、街中のいたるところで大道芸人がパフォーマンスを繰り広げるなど、荘重な古都エディンバラが華やかな祭りの雰囲気に染まります。 キルトを着た軍隊のバグパイプの演奏は、なかなか見れない光景ですし、フィナーレで、音楽に合わせて、花火がエディンバラ城の上空に打ち上げられるのも、楽しい雰囲気になれるのではないかと思います。 私の場合、ミリタリータゥーは会場のチケットは取らずに、宿泊しているホテルでラジオで音楽を聴きながら、窓から見えるエディンバラ城と花火を楽しみました。 20年以上も前の事になります... 参考ブログ: chiaroscuro: ミリタリータトゥーを見に行く
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 JIM THOMPSON ジム・トンプソン 1948年、アメリカ人のジム・トンプソンによって設立されたタイのブランドです。 「タイシルク商会」から始まったブランドで、手織りの上質なタイシルクは全世界を魅了しています。 タイシルクの歴史は古く、2000年前に遡ると言われています。 紀元前2640年頃に絹織りの起源が始まった古代中国やインドでシルクが誕生した後、中国人商人によって、中国やインドとは異なるアジアの地域に広がっていきました。 考古学者がタイのバンチェン遺跡(この場所は東南アジア最古の文明であると多くの人に考えられています。)で3000年以上も古いシルクの最初の繊維を発見したことが、いくつかの報告によって示されています。 タイ北東部のコラート地方で、桑の葉を食べる蚕から糸を紡ぎ、織物を制作していました。しかし、コラート高原で生産されたシルク製品は一般的に家庭用として使用され、一方でタイ王室は中国から輸入されたシルクを好んでいました。 タイ北東部に暮らす人々にとってシルクは家族の衣服であり、生活の糧でした。しかし20世紀初頭、生活様式の変化や外国製の絹織物の流入を受け、家内工業としてのタイシルクは、一時衰退の一途を辿ります。 日本の養蚕の専門家、富山亀太郎の支援によって、産業を発展させる試みが20世紀初頭に行われましたが、これらの試みは、より大きな市場向けに生産する動機が足りなかったために失敗に終わりました。 第二次世界大戦後、シルク製品はアメリカの家庭で人気が再び戻りました。 当時、アメリカのOSS(戦略情報局)のバンコク支局長だった、ジム・トンプソンは、タイに残り、当時バンコク唯一のヨーロッパ風ホテルとして知られていたオリエンタル・ホテル(現在のマンダリン・オリエンタル・バンコク)の経営に携わった後、当時機械織りによる大量生産の普及などで衰退の一途をたどっていたタイ・シルクに着目します。 ジムトンプソンは、タイで、タイシルクの美しさに魅せられ、その産業の復興に尽力しました。彼は、伝統的なシャム材料としてのマーケティングを彼のNYでのコネクションを通じて始めることにしました。手織りの技術を継承し、独特な色使いと柄を開発することで、タイシルクを再び世界に広めました。 やがてファッション誌「VOGUE ヴォーグ」に取り上げられるなど、一流のデザイナー...
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  Mandarin Oriental, Bangkok  マンダリン・オリエンタル・バンコク フルーツと言えば、タイのマンダリン・オリエンタル・バンコクのスパで、頂いたマンゴージュースが忘れられません。 有り難いことに、スパの始まる前、休憩中、終了後の3回ぐらい頂きました... バンコクの湿度の高い気候とオリエンタルな優雅なホテルの雰囲気の中で、飲んだマンゴージュースは、格別でした。 ※ マンダリン オリエンタル バンコク - バンコク - ミシュランガイド ステイはしませんでしたが、このホテルは、ヴィクトリア時代に建てられた最初の棟を基に、現代的なデザインと快適さを追求した歴史あるホテルです。 現在のホテルは、バンコクの中心、チャオ プラヤ川沿いにあるこの5つ星のラグジュアリーホテルは、贅をつくした客室(スイートを含む)、一流レストラン、プライベート スパを兼ね備えてます。 英国の大手メディアであるThe Telegraph主催の「The Telegraph ホテルアワード」で、2024年の「アジアおよび世界で最高のホテル」に選ばれました。 ドレスコードは、基本的にスマートカジュアルな服装が求められます。女性はエレガントな服装、男性は長ズボンとつま先・かかとが覆われた靴(サンダル、ビーチサンダルは不可)を着用するのが一般的です。また、終日男性の袖なしシャツは不可です。 かつてのヴィクトリア時代のオリジナルのホテルは、文豪の宿をつとめ、後にはグレース・ケリーなどの華やかな人々が宿泊客として名を連ねました。 ヴィクトリア時代(19世紀)のバンコクは、チャクリー朝の治世下で、西洋文化の影響が徐々に広がり始めた時期です。 王室は西洋との外交関係を強化し、近代化への取り組みも進めていました。 この時代、バンコクは様々な西洋の文化や技術を取り入れ、都市の発展を遂げていきました。 洋風の建築様式が取り入れられ、西洋の芸術や音楽なども徐々に浸透していきました。 一方で、伝統的なタイ文化も守られ、両者が共存する様相が見られました。
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  Ristorante del Capo 岬のレストラン 静岡の久能山からは、 山の斜面を利用して石垣を造り、石の輻射熱を利用して苗を栽培する「石垣いちご栽培」を見下ろすことができます。 海外では、イタリアのジェノヴァの岬レストラン(食堂)で食べたイチゴが新鮮で美味しかったのを覚えています。 ジェノヴァは、 リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業が発展した都市でイタリアの金融業の中心地としての長い歴史を持ちます。 歴史のある町並みが市内中心地に大きな規模で残っており、貴族の邸宅から庶民の町まで、中世自治都市の栄華を伝える雰囲気があり、 新大陸を発見した、航海家のコロンブスが生まれた街でもあります。 港で採れた新鮮な魚介類を中心にしたお料理、日本でもなじみのある イカのリング揚げなどの 郷土料理もあります。 ※ Ristorante 5 Maggio (ジェノヴァ) の口コミ1,696件 - トリップアドバイザー
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  Castelo de São Jorge サン・ジョルジェ城 ポルトガル・リスボン中央部、市内の高台にあり、 リスボン湾の見える眺めの良い お城です。 静岡の久能山の頂上にある、久 能山東照宮(徳川家康が埋葬された)から駿河湾を眺めた際に、どこかで似たような景色を見たことで思い出しました。 ※ リスボンの絶景を満喫「サン・ジョルジェ城」の楽しみ方 丘の上の最初の要塞化は、紀元前2世紀頃であるということだけ知られていますが、考古学調査から、少なくとも紀元前6世紀までには、フェニキア人・古代ギリシャ人・カルタゴ人の影響を受け、土着のケルト人とイベリア人が占領していたとわかりました。 のち、古代ローマ帝国、スエビ族、西ゴート王国、ムーア人と支配者が変わりました。現在につながる本格的なものは8世紀にイスラム勢力によってつくられたとみられます。 サン・ジョルジェというお城の名前は、14世紀末、国王ジョン1世が竜退治で有名なセント・ジョージを守護聖人として祭ったことに由来します(セント・ジョージはポルトガル語読みで「サン・ジョルジェ」)。  彼の王妃フィリパはイングランド王女であり、どちらの国でも龍と戦う聖人ジョルジェ(英語では聖ジョージ)は人気がありました。 それ以前は「アルカソヴァ宮殿」と呼ばれていたそうです。 お城はどこよりも素晴らしいリスボンの眺めが味わえることから、観光客に非常に人気があるスポットです。
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  Hofgarten Bayreuth   バイロイト宮廷庭園 バイロイト音楽祭(リヒャルト・ワーグナー音楽祭)の為に、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトを訪れました。 バイロイトの市内にあるこちらの庭園は、どこかイギリスの庭園と少し似ている感じのする公園でした。 ※ Bayerische Schlösserverwaltung | Gärten | Hofgarten Bayreuth 新宮殿の建設後、16 世紀末から辺境伯の所有であった庭園は再設計され、拡張されました。 1679 年に植栽され、新しい庭園に組み込まれたマイルバーン通りの南側には、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯夫妻のフリードリヒとヴィルヘルミーネによって、並木道、生垣、アーケード、花壇が造られました。 中心軸は 4 つの島と直角に曲がった運河によって形成されました。 18 世紀末、アレクサンダー辺境伯の命令により、宮廷庭園は、曲線の小道と開放的な植栽を備えた「英国風」の公園に改造されましたが、 今日のホーフガルテンでも、当初の幾何学的な庭園の基本的な特徴は、まだ見ることができます。 運河と 3 つの主要な大通りが庭園の外観を決定づけており、南翼の花壇は 1990 年に再建されました。 緑が多く、観光とコンサートの合間に、ほっと一息つくのに丁度良い公園でした。
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  Kensington Gardens ケンジントンガーデンズ ロンドンにある王立公園で、ハイドパークの西側に位置します。 ケンジントン宮殿(Kensington Palace)に隣接し、元々はケンジントン宮殿の一部でしたが、一般に開放されました。 前回訪れたときは、リスが沢山出てきました。 ※ ロンドンの公園歩き 春のケンジントン・ガーデンズ編 | GardenStory (ガーデンストーリー) また、ピーターパンの物語の舞台としても有名です。 ピーターパンの物語では、主人公のピーター・パンがケンジントン公園で乳母車から落ち、迷子になることから永遠に成長しなくなるという設定があります。 そのため、公園内にはピーターパン像も設置されていて、公園内にはピーターパンの物語に登場するような自然豊かな環境が広がっています。 このため、公園内には多くのリスが住み、訪れる人々の目に触れる機会も多いです。
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  Queen Mary's Gardens クイーン・メアリー・ローズ・ガーデン 世界的に有名なこの公園は、 イギリス国王ジョージ5世の妻、メアリー妃にちなんで名前がつけられて、 その名の通り「バラ」が美しい公園です。 場所は、ロンドン市内で最も美しいとも言われるリージェンツパークのやや南のインナーサークル内にあります。 ローズガーデンは、ロンドン最大のバラコレクションを誇り、約12,000株のバラが園内に植えられています。 85の単品種のバラの花壇が展示されており、古典品種から最新のイングリッシュローズまで、ほとんどのバラの品種が園内に展示されています。 また、バラだけでなく、デルフィニウム、ベゴニアなどの花が咲き、低木は、庭園に神秘的な雰囲気をもたらすように配置されて、これらの素晴らしい植物が織りなす豊かな景観と香りは、庭園の散策を楽しめます。 ベストシーズンは、バラが見頃の6月始めの2週間と言われています。 ガーランドと言われる、サークル状につるバラが誘引された花綱の下にベンチが置いてあり、360度バラに囲まれて、ロマンチックな雰囲気となっています。 ※ イングリッシュガーデン旅案内【英国】クイーン・メアリーズ・ガーデンズの花綱 | GardenStory (ガーデンストーリー) 私が訪れたときは、そこを、おじいさんとおばあさんが仲良く手をつないで、散策していました。 イギリスならではの、まさに、Lovery(ラブリー)な 光景 でした♪
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  Wiener schnitzel ヴィーナー・シュニッツェル ウィンナーシュニッツェルは、ウィナーシュニッツェルと綴られることもありますが、薄くパン粉をまぶしてフライパンで揚げた子牛肉のカツレツで作られたシュニッツェルの一種です。  ウィーン料理の最も有名な料理の 1 つであり、オーストリアの国民料理の 1 つです。 ザルツブルグ音楽祭に行った際に、聖ペーター教会の隣にあるレストラン「Restaurant St.Peter Stiftskulinarium」で初めて頂き、美味しかったのを思い出します。 こちらのレストランは、元々「聖ペーター修道院」で、1,200年以上にわたり、おもてなしと美食を提供し、ヨーロッパ最古と言われるレストランと言われています。 ※ 『オーストリアザルツブルク街歩き&人生で最高のシュッニッツェルとの出会い』ザルツブルク(オーストリア)の旅行記・ブログ by Akariさん【フォートラベル】 日本でよく見られるのは、シュニッツェルとよく似た料理に「ミラノ風カツレツ」があります。 ミラノ風カツレツは、イタリアのミラノ発祥の料理で、仔牛の肉を叩いて薄くのばし、粉チーズを加えたパン粉をまぶします。 粉チーズのコクがプラスされ、シュニッツェルとは違った味わいを楽しめる料理です。 参考: ウィーン名物 ウィンナーシュニッツェル 作り方・レシピ | クラシル ミラノ風カツレツ☆トマトソース添え | クラシル
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  Wiener Staatsoper ウィーン国立歌劇場 オペラ「ドン・カルロ」を観た歌劇場で、ウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられており、「オーパー・リング(オペラ通り:Oper Ring)」と呼ばれています。 ウィーン国立歌劇場(ドイツ語: Wiener Staatsoper ヴィーナー シュターツオーパー)は、オーストリアのウィーンにある歌劇場です。1920年まではウィーン帝立・王立宮廷歌劇場(k.k. Hof-Operntheater–Neues Haus)と呼ばれていました。 ※  『ビールとオペラとクリスマス市 5 ウィーン4日目』ウィーン(オーストリア)の旅行記・ブログ by あんずの姉さん【フォートラベル】   ウィーンは、ドイツから北イタリアを支配していたハプスブルク君主国の首都であったため、ドイツ・オペラのみならずイタリア・オペラにとっても中心的存在でした。 その帝都の威信をかけて発足した歌劇場であり、精力的な上演活動によってたちまち世界のオペラをリードする位置にのぼり、現在に至っています。 ただし、モーツァルトの時代には間に合わず、その後のドイツオペラをリードしたヴァーグナーやリヒャルト・シュトラウスの初演拠点にもならなかったこともあり、有名作品の初演歴という点ではドレスデンやミュンヘンに一歩を譲っています。 歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級によるオーパンバル(オペラ座舞踏会)にも使用されています。 ヴィーナー・オーパンバルとは、オーストリアのウィーン国立歌劇場で毎年2月灰の水曜日の前の木曜日に行われる舞踏会です。 ダンス伴奏はウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体)およびウィーン・オペラ舞踏会管弦楽団が担当し、ヨーロッパで最も格式高いデビュタントボールの一つにも数えられます。 デビュタント(debutante)としての出場資格は近年になって基準が緩和され、審査を通れば一般人でも参加できるようになりました。ただし条件は厳しく、長身で容姿端麗、語学に堪能など、社交界デビューに相応しいものが求められます。 ダンス教室に通っている17歳~24歳の男女150組300人がオーディションで選出され、一生に一度しか出られません。また、今なお「お見...
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  Don Carlo ドン・カルロ こちらは、 19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家、 ジュゼッペ・ヴェルディ作曲によるオペラで、ヴェルディの中期の作品に分類されます。 原作は、ドイツの劇作家 フリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲『ドン・カルロス』(1787年作)です。 ウィーンに訪れたときに、国立歌劇場で上演されているのを、観に行きました。イタリアオペラということで、華やかな印象のオペラでした。 元々は、1865年のパリ・オペラ座の依頼により、1865年から1866年にかけて作曲、全5幕のオペラとして1867年3月にオペラ座にて初演しました。オペラ座からの依頼は、1867年にパリ開催が決定していた万国博覧会にあわせて上演するためのグランド・オペラでした。 1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ウジェニー皇后(スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまったこともあり、初演は失敗に終わってしまい、この作品でもヴェルディがパリでの決定的成功を得ることはかないませんでした。ヴェルディがこの歌劇の作曲者として評価されるのは、3か月後のロンドン上演の成功まで待たなければなりませんでした。 16世紀のスペインを舞台に、スペイン国王フィリッポ2世(バス/実在のスペイン国王フェリペ2世)と若き王妃エリザベッタ(ソプラノ)、スペイン王子ドン・カルロ(テノール)、王子の親友ロドリーゴ侯爵(バリトン)、王子を愛する女官エボリ公女(メゾ・ソプラノ)、カトリック教会の権力者・宗教裁判長(バス)たち多彩な登場人物が繰り広げる愛と政治をめぐる葛藤を壮大で重厚な音楽によって描いています。 このオペラにおいては二つの公的な対立と幾つかの個人的葛藤によって構成されています。 一つ目の対立は宗教界における旧教と新教の対立であり、スペインはカトリック教の有力な勢力であるのでフィリッポ2世と大審問官(宗教裁判長)がこれにあたります。一方、フランドル地方は新教徒が多く、ポーザ候ロドリーゴとドン・カルロがこちらの代表となります。 二つ目の対立は政治権力(フィリッポ2世)と宗教権力(宗教裁判長)ですが、当時の状況では後者の方が明らかに強かったことが分かります。 個人的葛藤は、カルロとエリ...
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  Don Quixote ドン·キホーテ こちらは、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスによる小説『ドン・キホーテ』は、スペイン・バロック文学の代表作であり、世界文学史上の傑作として知られています。 以前は、物語の内容も知らず、 発音だけ聞いたところ、 Donkey(ロバ)の物語かと思っていました。 物語の内容は、主人公のドン・キホーテは、騎士道物語を読みふけって妄想に取り憑かれ、自身を遍歴の騎士と信じ、従者サンチョ・パンサと共に様々な冒険と失敗を繰り広げるというお話です。 この小説は、理想と現実、詩的真実と歴史的真実をテーマに、人間存在のあり方を問いかける作品としても評価されています。 宮廷画家ベラスケスが活躍した同時代にあたり、当時、幻想と現実の関係は、スペイン文化の中心的な関心事でした。 主人公のドン・キホーテの本名は、 アロンソ·キアーノ(Alonso Quixano)で、60歳頃に入った老人でした。   アロンソの意味は「高貴さを備えた人」です。  ドン(Don)の意味は、 「様」や「殿」のような意味です。  キホーテ(Quixote)の意味は、「太ももを覆う鎧」で、 丈夫な下半身は「卓越した男性的エネルギー」を意味します。 彼が「キアーノ」という姓を発音が似ている「キホーテ」に変えた理由は、現実の年齢と身体条件の限界を克服するための意志だったと推測できます。 ※  『ドン・キホーテ』フランスの画家 ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré, 1832年1月6日 - 1883年1月23日)の挿絵