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  Quartier Latin 「カルチェ・ラタン」 【パリ5区】学生の街カルチェラタンの治安は?最新治安状況とスリ対策をご紹介 – paris magazine パリのカルチェ・ラタン(=ラテン地区)は、フランス・パリ中心地のセーヌ川左岸にあり、そこにあるソルボンヌ大学の学生たちのラテン語が飛び交う地区ということでこの名がつきました。 イタリアの作曲家、プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》の第2幕はクリスマス・イブの買い物や外食をする人でごった返すカルチェ・ラタンが舞台です。 ストーリーのあらすじは... クリスマス・イブのパリ。若くて貧しい芸術家4人が住む屋根裏部屋で詩人ロドルフォが独り仕事をしていると、隣人のお針子ミミがロウソクの火を貰いに現れ、二人はたちまち恋に落ちる。 画家マルチェッロも元恋人のムゼッタとよりを戻し、若者達は青春を謳歌する。2月の雪の日、ロドルフォは胸を患うミミを救うために悲痛な別れを決意する。 数か月後、ミミが瀕死の状態で屋根裏部屋に運び込まれ、愛するロドルフォの傍らで息を引き取る。 といった内容です。 《ラ・ボエーム》の時代は19世紀半ば。花の都パリには地方から大学生や、ボヘミアンと呼ばれる芸術家の卵たちが大勢集まっていました。 そして当時のパリには、地方から出てきて縫製の仕事などをしながら独り暮らしをする若い女性たちの存在もありました。 彼女らはグレー系の服を着ていることからグリゼットと呼ばれ、大学生や芸術家たちの恋愛相手でもありました。 ボヘミアンが溜まり場としていたカフェ・モミュスは、原作となった小説 アンリ・ミュルジェ『ボヘミアンの生活』の中にも登場する実在したカフェですが、実際にはセーヌ川右岸にありました。 Bicerin | Caffè Al Bicerin dal 1763 a Torino 実はこのモミュスのモデルとなったのが、トリノ市内、コンソラータ聖所祈念堂前に位置するカフェ・アル・ビチュリンです。 このカフェは、創業1763年で、トリノ最古のカフェで、当時、プッチーニがこのカフェに毎日通っていたそうです。 カルチェラタン | O'Bon Paris | Easy to be Parisian 美しいエストラパード広場。 この華やかなパリの広場は、17世紀には実際に公開処刑や拷問が行われた場所でした。 現在で...
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  Salzburg ザルツブルク ザルツブルク:モーツァルトの街 ザルツブルクは、オーストリア中北部の都市で、音楽の天才と呼ばれる、モーツァルトが誕生した都市として有名です。 都市名の語源として、ザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意味です。 中世〜18世紀、ザルツブルグから15kmほど南のバート・デュルンベルクで産出される岩塩をハライン 市において製塩し、大司教から特権を与えられたラウフェンの船乗りたちがハラインからザルツァッハ川を通じてヨーロッパ各地に送っていたと言われています。 1756年のモーツァルト誕生当時も、周辺の岩塩鉱と塩の交易で得た莫大な富が大司教の統治する街を支えていました。 ザルツブルクは、町の中心を南から北に流れる清流ザルツァッハ川の西側に位置し、ツェントルムと呼ばれる旧市街と、川の東側に位置する新市街とに分かれます。そして、町のほとんどどこからでも見える南の高台にはホーエンザルツブルク城があります。 ザルツブルク周辺には、市街地からすぐアクセスできるメンヒスベルクの森や、豊かな自然が広がるザルツカンマーグート地方の美しい森林・湖水地帯があります。 鳥刺しのパパゲーノ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)の『魔笛』より ザルツブルグで生まれたモーツァルトは、『魔笛』というオペラを生涯の最後に完成させました。 舞台は、時代不詳のエジプトで、正確には、漠然と「ラムセスの時代」と書かれています。 登場人物としては、ザラストロの神官、夜の女王、王子、王女、鳥刺し、老女、奴隷、侍女など。 物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まりますが、途中で善玉と悪玉が入れ替わります。夜の女王の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるといった哲学のようです。 エジプトの「最も偉大な王」ラムセス2世を作った広報戦略とは | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト 古代エジプトのラムセス時代(新王国時代・第19〜20王朝、紀元前13世紀〜紀元前11世紀)では、塩(特にナトロンと呼ばれる天然の炭酸ナトリウム類)は金や穀物にも匹敵する極めて貴重な資源で、主にナイル・デルタ西方のワディ・エル・ナトロン(天然の塩湖が集まる地形)などで採掘されていました。 ラムセス時代の王や貴族のミイラ(不老不死の信仰)を作る際、遺体...
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Blue Water Lilies 青い睡蓮 Nymphéas bleus - Claude Monet | Musée d'Orsay クロード・モネの晩年の油彩画『青い睡蓮』(1916〜1919年頃制作)は、パリのオルセー美術館に所蔵されています。 モネは1893年、フランス北部ジヴェルニーの自邸に設けた水の庭で白いスイレンを育てていました。1910年代から1926年に亡くなるまで、この庭、とりわけその池は、彼にとって唯一のインスピレーションの源となりました。 しかし、熱帯性の「青い睡蓮」は当時のフランスの気候では育てるのが難しく、温室まで作ったもののついに咲かせることができませんでした。 水の庭 – 北川村「モネの庭」マルモッタン 高知県北川村にある北川村「モネの庭」マルモッタンでは、 モネが夢見た青い睡蓮の栽培に成功していて、 夏から秋にかけて見ごろを迎えます。 青以外にも赤や白の鮮やかなスイレンの花が毎朝約300輪咲き、水面を彩るようです。
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 Hilton ヒルトン家 パリスも今や2児のママ! ヒルトン家のNEXTジェネレーションをチェック | おしゃれママ・子育て | カルチャー | ELLE [エル デジタル] ヒルトン家といえば、日本でも海外でも、ホテルチェーン創業家出身の有名一家です。 1919年にコンラッド・ヒルトンがテキサスの小さなホテルを購入してから始まった、世界にまたがるラグジュアリー・ホテルチェーン、ヒルトン・ホテルズ&リゾーツの創業家出身です。 創業者のコンラッド・ニコルソン・ヒルトンは、ニューメキシコ州出身のノルウェー系ドイツ人移民です。 第一次世界大戦では、従軍してフランスへ送られ、退役後は、テキサス州シスコに移住し、たまたま見つけたモブレー・ホテルを1919年に買収したのが彼のホテル経営の最初です。 その後はホテル経営に才能を発揮し、1930年にはヒルトン・ホテル最初の高級ホテルとなるエル・パソ・ヒルトン(現プラザ・ホテル)を開業しました。 世界恐慌期には破産寸前にまで追い込まれますが、その後立て直し、1946年にヒルトン・ホテルズ・コーポレーションを設立し、株式の上場を果たした。その後の経営は順調に進み、現在に至っています。 彼の曾孫にあたる、パリス・ヒルトンやニッキー・ヒルトンは、現在、ファッション業界や実業家としてもあまりにも有名なセレブです。 ウォルドーフ・アストリア・ロンドン・アドミラルティアーチ ヒルトンホテルの中でも、世界のセレブが愛する最上級の「ウォルドーフ・アストリア」が、今年の秋、ロンドンに、「ウォルドーフ・アストリア・ロンドン・アドミラルティアーチ」として誕生します。 アドミラルティ・アーチ(Admiralty Arch)はロンドンの歴史的建造物で、南西はザ・マル、北東はトラファルガー広場へつながる道にかかるアーチです。 このアーチは、1912年に完成し、アーチが隣接する海軍本部(アドミラルティ)がその名前の由来となり、グレードⅠの保存建築指定を受けており、かつては政府庁舎でもありました。 2012年に不動産開発会社プライム・インベスターズ・キャピタルへ125年の借地権付で売却されたため、高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」として再開発されることとなりました。 もとはといえば、エドワード7世が、母であるヴィクトリア女王を記念して建造を命じ...
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  The Five Great Bonfires of Kyoto 京都五山送り火 京都五山送り火「どんな行事?」|【京都市公式】京都観光Navi 本で最も盛大で有名な盆の送り火といえば、毎年8月16日に京都で行われる伝統行事の京都五山送り火です。 夏の夜空を彩る「京都五山送り火」は、お盆の精霊を送る伝統行事です。 東山の「大文字」をはじめ、「妙・法」「舟形」「左大文字」「鳥居形」の5つの文字や形が夜空を彩り、お盆に帰ってきたご先祖様の霊をあの世へ送り出します。 京都の五山送り火の主な特徴点火のスケジュール: 毎年8月16日の夜8時を皮切りに、5分おきに各山に次々と点火されます。 東山に大の字が浮かび上がり、続いて、松ケ崎に妙・法、西賀茂に船形、大北山に左大文字、そして、嵯峨に鳥居形が点ります。 それぞれの文字に仏教的な意味があるようですが、その説は確かではありません。 船形万燈籠送り火は、東山の「大」に対して、「船」を「乗」とみなし「大乗仏教」を表しているという伝承や、お盆に先祖を彼岸へ送る「精霊流し」の船を模しているなどさまざまな説があります。 ハロウィンとアイルランド – 姫路市国際交流員のブログ また、ヨーロッパには日本のお盆の「送り火」や「精霊迎え」に似た、火を焚いて精霊や悪霊を追い払ったり、季節の変わり目を祝ったりする古い伝統行事が各地にあります。 例えば、アイルランドの「サウィン(Samhain)」は、アイルランド語で「夏の終わり」を意味する古代ケルトの祝祭であり、現代の世界中で祝われているハロウィーンの起源となった2000年以上続くお祭りです。 10月31日~11月1日に行われ、この夜は現世とあの世の境界が消え、死者の霊や精霊、魔女たちが家族を訪ねて戻ってくると信じられていました。 彼らから身を守ったり、道案内や魔除けのために大きな焚き火(ボーンファイヤー)を焚いたのが、現代のハロウィーンの焚き火のルーツです。 この時期にアイルランドで多くの家族は「バーリーン・ブラック」という伝統的なフルーツケーキを食べるようです。 普通のケーキではなくて、占いケーキで、中に色んなものが入っていて、将来を占うことができるようになっているようです。 盆の送り火も、ハロウィンも、過去と未来をつなぐ不思議な現象が起こる、スピリチュアルな体験ができそうです♪
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  L'appel du large 「冒険の呼び声」 エルメスの2026年の年間テーマは「冒険の呼び声(L'appel du large)」です。 未知なる世界や自分自身の内側へと飛び出す挑戦や、クリエーションにおける予期せぬ驚きや発見を表現しています。 19世紀初頭に創業者ティエリ・エルメスが故郷を離れパリへ旅立った時から続く、メゾンの冒険心や挑戦の姿勢が基になっています。 カレ 90 《自然と旅》 | Hermès - エルメス-公式サイト 《自然と旅》シリーズのエルメスのスカーフ。 花のモチーフを自在に操るテオ・デ・グエルツは、エミール・エルメス・コレクションに収められた一枚の版画から新たな着想を得ました。 18世紀から19世紀にかけてフランスで大流行を見せた軽やかで機敏な馬車ですが、パリの石畳にはあまり適していなかったとも言われています。 そのためでしょうか、この情景には都市の気配がほとんど感じられません。豊潤な楽園に迷い込んだらしき馬車のまわりでは、いたずら好きの小さな猿たちがサスペンションや車輪を蔓と見立てて戯れています。 野性と洗練が交差する、車輪ひとつで辿り着く異世界です。 2026年4月23日(木)~25日(土)に、イタリア・ミラノで行われたミラノデザインウィークにて、エルメスの新しいホームコレクションを発表しました。 オブジェから空間へ、通路のあいだを、一人の旅人がさまよう。 エルメス ミラノデザインウィーク 2026 | Hermès - エルメス-公式サイト イギリスのデザインデュオ、エドワード・バーバーとジェイ・オズガビーが手がけたテーブル《スタジアム・ドゥ・エルメス》。 8の字を描くようなフォルムは、馬の背のしなやかな曲線や競馬場のトラックを思わせます。全体は大理石のマルケトリで仕上げられていながら、その佇まいは驚くほど軽やかです。 馬といえば、今では、日本でも競馬ぐらいしか楽しみがない時代ですが、20世紀初頭に自動車が普及するまで、移動手段として、馬の足無くしては移動できなかった時代から着想を得て、現代の生活にも好まれるようなデザインやモチーフを生み出す力は、まさに「冒険」だと思います。
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Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain 「アメリ・プーランの素晴らしい運命」 Amazon.co.jp: アメリ(字幕版)を観る | Prime Video 「幸せになる」のキャッチコピーで、2001年に公開された 映画『アメリ』の原題です。 パリ・モンマルトルを舞台に、妄想の世界が大好きな少女・アメリの日常と 恋を、色鮮やかな映像とレトロな雰囲気で描いています。 冷淡な元軍医の父親ラファエルを持つアメリは、いつも父親に触れてもらうのを望んでいたが、接触があるのは、彼女の心臓検査時だけで、アメリは検査のたびに心臓が高揚するほど。 そんなアメリの心音を聞き、心臓に障害があると勘違いした父親は、学校に登校させずアメリの周りから子供たちを遠ざけてしまう。 やがてアメリは 神経質な元教師の母親 を事故で亡くし、孤独の中で想像力の豊かな、しかし周囲と満足なコミュニケーションがとれない不器用な少女に育っていく。 22歳となったアメリは実家を出てアパートに住み、モンマルトルにある元サーカス団員経営のカフェ「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン」で働き始める... ストーリーや映像、美術にお洒落で愛らしさが溢れる一方、ジャン=ピエール・ジュネ監督らしくブラック・ユーモア満載で描き、コミュニケーション不全の問題についての喚起もされています。 想像力で毎日をハッピーに生きる少女の、愛らしい恋模様を描いた映画『アメリ』 - 演劇メディアAudience(オーディエンス) 映画を元にしたミュージカル『アメリ』 は、2015年9月11日〜10月4日までアメリカ・カリフォルニア州のバークレー・レパートリー・シアターで上演。 アメリ役は映画『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役を演じたサマンサ・バークスさんが務めました。 2017年には ブロードウェイミュージカルに生まれ変わり、翌年2018年には日本版初演が上演されました。日本版は、2018年に元AKB48の渡辺麻友さん主演で上演。 時を経ても尚、特に女性たちを魅了し続けている作品です。
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  Festa Junina 「6月の祭り」 ブラジルのお祭り“フェスタジュニーナ”とは - SORTE ブラジルマガジン 7月半ばも過ぎ、作物に恵みの雨をもたらす梅雨が明けの時期ですが、 フェスタ・ジュニーナ「6月の祭り」に参加してきました。 ブラジルの各地で盛り上がる6月(7月)のイベントで、7月に行われる場合もあり、ポルトガル語で7月はJulhoなので、フェスタジュリーナ(Festa Julina)と呼ばれます。 フェスタジュニーナとは、もともとはヨーロッパ各地で行われていた豊穣を祈願する祭りを、16〜17世紀にポルトガルからブラジルへ持ち込まれ各地で開かれたのが始まりです。 ブラジルでは冬至や収穫、聖アントニオ(結婚の聖人)、聖ジョアン・バチスタ(火の聖人)、聖ペドロ(雨の聖人)の3人の聖人を讃え、焚き火やダンスで盛大にお祝いします。 夏休みが始まっているせいか、子供の参加もちらほら... 大人に夏休みはありませんが、長い夏を乗り切るのに、何か本でもと思っていたところ、夏に読む海外文学の中に、『ダロウェイ夫人』が紹介されていました。 ダロウェイ夫人 (集英社文庫) | ヴァージニア・ウルフ, 丹治 愛 |本 | 通販 | Amazon 『ダロウェイ夫人』は、1925年に発表されたヴァージニア・ウルフの長編小説で、第一次世界大戦の爪痕の残るロンドンで、6月のある日、夜会を開く当日のクラリッサ・ダロウェイの1日を「意識の流れ」の手法で、生、死、時を描いたモダニズム文学の代表作です。 戦争は終わり、何気ない朝に感じる生きている喜びを噛みしめながら、夜会の準備から終わりまでに、現在と過去、初夏という季節の描写の美しさやクラリッサおよび周りの人々の生と死への観念を考えさせられます。
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La Promenade 『散歩』 Exhibition Renoir and Love | Musée d'Orsay 『ラ・プロムナード(散歩)』は、 フランスの画家ピエール=オーギュスト・ルノワールが1870年に制作した初期印象派の油彩画で、 ロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館に収蔵されています。 5月17日から本日まで、フランス、パリのオルセー美術館で、 「Renoir and Love    A Joyful modernity (1865-1885) 」 という題名で展示されています。 この作品は、郊外へ遠出をした パリの中産階級の 若いカップルが、 自然光の中で 、公園の小道を歩く様子を描いています。 美しい時代のパリ郊外を舞台に、木漏れ日や柔らかなタッチが印象的な作品として知られています。 ルノワールは、マネ、ドガ、モネ、カイユボットらと同様、19世紀における「現代生活」を描いた偉大な画家の一人と見なされています。 1860年代半ばから1880年代にかけて、彼は光と色彩にあふれた軽やかで流麗な画風を確立するとともに、男女間の関係に焦点を当てた新たな主題を取り上げました。 また、彼が深く敬愛した先人たちへのオマージュという側面も持っています。 18世紀の画家たちが描いたのは、官能的で陽気な庭園での散策風景や 誘惑の場面でしたが、ルノワールが捉えたのは、偶然に出会ったかのような束の間の瞬間です。 ナポレオン3世の第二帝政末期の1870年のフランスは、 ブルジョワ的な慣習や宗教的道徳観が依然として恋愛や性愛を支配していた時代にあって、こうした近代的な恋の「光景」は、より自由な道徳観や「許されざる」恋の芽生えを促すものでした。 伝統的なジェンダーの固定観念がその描写に見られるとはいえ、ルノワールは男女間の関係に再び魔法のような魅力を吹き込むべく、 男性の欲望と女性の同意という問題を暗に問いかけています。 人間同士、そして人間と自然を結びつける根源的な力としての「愛」が、彼の創作の指針となっていました。 Pierre-Auguste Renoir | Publications and Reports | Getty 以上の本の中で、ロンドン大学コートールド美術研究所のジョン・ハウス教授は、以下のように 問いかけます。 「 『散歩』のような...
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  Anne Frank Huis アンネ・フランクの家 アンネ・フランクの家はアムステルダムの歴史的観光スポット!チケット予約・購入方法も解説 | NEWT(ニュート) アンネ・フランクの家は、オランダのアムステルダムにあるアンネ・フランクの一家など8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家で、現在は、博物館になってます。 アンネ・フランクの家が佇むプリセングラハト運河は、世界遺産のアムステルダム中心部:ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区にあり、その美しい歴史的街並みが印象的です。 オランダの家は表の間口が狭く、奥行きがある家の構造になっているため、アンネフランクの隠れ家は、裏側の建物にあり、表の建物から裏の建物に通じる入口を隠すために、回転式の本棚が置かれていました。 アンネ・フランクの家へ(春のオランダ旅行 2019-14) : スイスの街角から The Secret Annex | Anne Frank House この隠れ家の屋根裏部屋で、アンネが書いた「アンネの日記」は有名です。 Amazon.co.jp: アンネの日記 増補新訂版 eBook : アンネ・フランク, 深町眞理子: 本 アンネは、第二次世界大戦中のドイツによる占領下のオランダ、アムステルダムが舞台に、国家社会主義ドイツ労働者党によるユダヤ人狩りのホロコーストを避けるために、咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだユダヤ人達の生活が描かれています。 主要な登場人物は、アンネと一緒にアムステルダム市プリンセンフラハト263番地の隠れ家に隠れていた、7人の同居人とその生活を助けていた人々です。 アンネの死後、生き残った父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになりました。
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 Tous chemins vont à Rome 「 すべての道はローマに通ず。」 「裁判官と病院長と隠者」 ジャン=バティスト・オドリーを模したニコラ=ガブリエル・デュピュイによる版画 デサン&サイヤン版、1755年 - 1759年 17世紀のフランスの詩人、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『寓話集(Fables)』 第12巻の第25話 の 「裁判官と病院長と隠者」(Le Juge arbitre, l'Hospitalier, et le Solitaire)の物語で用いられ 、現代に伝わる教訓としての意味が定着しました。 ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ (1621〜1695年)は17世紀フランスの古典主義詩人です。 彼がイソップ童話などを下敷きに動物を主人公として著した『寓話詩(寓話集)』は、当時の皇帝ルイ14世の 王太子に人生の教訓を教える目的で書かれ、今もフランスの国民的文学として愛されています。 「裁判官と病院長と隠者」の物語では、 魂の救済を願う3人の友人が、世俗の中でどう生きるかを相談します。 1人は裁判官、もう1人は病院長、そして残りの1人は隠者となって、それぞれのやり方で人々を助けることにします。 裁判官は不正やもめ事に疲れ果て、病院長は患者の世話や日常業務に忙殺され、どちらも精神的な安らぎを得られずにいました。 彼らは隠者である友人のもとを訪ね、「あなたこそ静かで平和な毎日を送っていてうらやましい」と悩みを打ち明けます。 それに対し隠者は、隠者は「自分自身を知らずして他者の救済はできない」と諭します。静かな森の中でさえも自分の心(情念)と向き合うことの厳しさを語り、「自己を知ることこそが、他者を導き、平穏を得るための第一歩である」という人生の教訓(精神的遺書)で締めくくられます。 この物語は、どの生き方が優れているかではなく、「魂の救済」や「真理」にたどり着くための道筋や方法は人それぞれであり、どの道も最終的には同じ目的地(真理・救済)に通じているという深い人生訓を表しています。 歴史的背景としては、 歴史的背景古代ローマ帝国は、属州を支配し物資や軍隊を迅速に移動させるため、何万キロにも及ぶ巨大な道路網(アッピア街道など)を築き上げました。 すべての主要な街道が帝国の首都であるローマへと繋がっていた事実から生まれた言葉です。 その為、「す...
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  Mr and Mrs Andrews 『アンドリュース夫妻の肖像』 Thomas Gainsborough | Mr and Mrs Andrews | NG6301 | National Gallery, London 上の絵画は、イギリスのサドベリ出身の画家であるトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough)(1727年〜1788年)の初期のキャリアにおける傑作です。 現在、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されています。 ロバート・アンドリュース氏(1725–1806)とフランシス・アンドリュース夫人(1732年頃–1780)を描いたこの肖像画は、ロバート・アンドリュース、その妻、そして彼の所有地という「3つの対象を描いた肖像画」とも評されています。 夫妻の背後には、ストゥール川の渓谷越しに東へと広がる雄大な景色が広がっています。ロバート・アンドリュースは約3000エーカーの土地を所有しており、ここで目にする風景の大部分も彼のものでした。 夫人の膝元にある未着色の部分は、後から赤ん坊を描き入れるために空けておかれたものかもしれません。 エセックスの田園地帯の森や雲の美しさに包まれ、豊かな収穫を控えた畑や家畜のいる牧草地の傍らで、自らの土地に馴染んだ姿を意識的に見せるアンドリュース夫妻。 ゲインズバラは、刻々と変化する天候や自然のままの風景を説得力を持って描き出す手腕を遺憾なく発揮しています。こうした表現は、当時としてはまだ新しい試みでした。 Explore Sudbury | Sudbury Town Council ゲインズバラの出身地であるサドベリは、エセックス州との境界近く、サフォーク州の南西部に位置する歴史ある美しいマーケットタウンです。ロンドンからは北東へ約97km(電車で約1時間〜1時間半)の距離にあります。 サドベリは、ストゥール川(River Stour)の渓谷に位置し、川沿いのウォーターメドウズ(水草地帯)の風景が有名です。また、中世の羊毛貿易や絹織物産業で栄え、歴史的な木骨造りの家々が今も残っています。 トーマス・ゲインズバラの生家「ゲインズバラ・ハウス」は、現在は美術館となっており、彼の作品や生涯について学べる観光のハイライトとなっています。 ハウスの中心にある美しい歴史的な庭園は、献身的なボランティアによ...
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  Habitat 「ハビタ」 ハビタは、イギリスにあるインテリアショップで、日本橋に訳すと「生息地」となり、発音としては、フランス語読みになります。 イギリス・サリー州生まれのデザイナー、 テレンス・コンランが手がけ、 1号店は1964年、ロンドンのフルハム・ロードにオープンしました。 イギリスには、19世紀後半に、「生活のなかの芸術」を目指したウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフツ運動がありました。 テレンス・コンランは、 当時のイギリスは経済難で、閉塞感が漂っている中、一般の人が手にできる手頃な価格のものを各国から集めた色彩豊かな商品をそろえました。 テレンス・コンランが88年の生涯で残したもの | ELLE DECOR [エル・デコ] 写真は70~80年代のカタログで、 テレンス・コンランの 信条は、 ” Plain Simple Useful” でした。 日本でも、Habitat のHPから商品を購入することが出来ます。 現在、 サンダーソン(Sanderson)とのコラボレーションのインテリアがHPに載っていました。 サンダーソンも、 テレンス・コンランと同じく “より良いデザインを一般の人々へ”のモットーを掲げ、 1860年に創設された英国王室御用達の総合インテリアブランドです。 伝統的なボタニカル(花柄)や自然をモチーフにした、絵画のように美しくエレガントなデザインで世界中から愛されています。 Buy Habitat x Sanderson & National Trust Stripe Tablecloth | Table cloths | Habitat 日本でも、壁紙などインテリアでサンダーソンのデザインの商品を買うことが出来ます♪ Sanderson – WALPA.jp
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Emerald City エメラルドの都 シアトル系コーヒー発祥の地で巡る、地元市民が愛する注目カフェ |OnTrip JAL (2/2) アメリカ西海岸北西部のワシントン州に位置するシアトルは、豊かな自然と最先端のイノベーションが融合した「エメラルド・シティ」の愛称で知られる活気あふれる都市です。 その街で、日本でもポピュラーなコーヒーチェーンである「スターバックス」や「タリーズコーヒー」の他、「シアトルズベストコーヒー」などシアトルでコーヒー(シアトル系コーヒー)が発展したのは何故でしょうか? 一つ目の理由は、シアトルは年間を通して雨が多く、肌寒い日が多い街です。そのため、人々が雨風をしのいで暖をとるための場所としてカフェが愛用され、定着しました。 二つ目の理由は、 街にはイタリア系などのヨーロッパ系移民が多く暮らしており、彼らが故郷の習慣であるエスプレッソを日常的に飲む文化を持ち込んだためです。 また、 自宅(第1の場所)でも職場(第2の場所)でもない、リラックスして過ごせる空間、サードプレイス(第3の場所)の概念としてカフェを位置づける文化が生まれました。 特徴として、従来のアメリカで主流だった「安く大量に淹れた薄いコーヒー」とは異なり、高品質な豆を使い、バリスタが一杯ずつ淹れるスタイルや空間そのものを楽しむスタイルを確立したのがシアトル系コーヒーです。 シアトルの基本情報【2026年最新】〜特色や気候、歴史、経済、日本との関係など | 現地情報誌ライトハウス・シアトル 私がシアトルを訪れたときも、丁度、雨が降っていて、ホテルの「シアトルズベストコーヒー」を飲んで、寒さをしのいだ思い出があります。 その時、シアトルの街でコーヒーが愛されている理由を知りました。
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  Delftware デルフト焼き 「デルフト焼き」とは、白い釉薬を施した陶器にコバルトブルーで絵付けをしたオランダの伝統的な陶芸です。 17世紀、東インド会社が持ち帰った中国の青花磁器(染付)に魅せられた職人たちが、その美しさを自国で再現しようとしたことから発展しました。 オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる陶器です。 デルフトに住んでいた画家ヨハネス・フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』にも、この時期のデルフト陶器の皿が描かれていますが、16世紀末から17世紀にかけて全盛期を迎えました。 Gemäldegalerie Alte Meister: The process of creating the painting モチーフとしては、風車や運河、チューリップといったオランダの風景や、中国・日本の影響を受けた花鳥図などが描かれます。 1653年に創業し、現在も唯一オランダ王室の称号を与えられている伝統ある窯元として、 ロイヤル・デルフト(Royal Delft)があります。 Memento Blue Pebble Free as a Bird - Royal Delft 写真の手描きの「メメント・ブルー・ペブルズ」コレクションでは、カスタムデコレーションもできるようです。 特別なご要望や個人的なアイデアは、熟練の画家とのご相談の上、デザインとして形にすることができます。 内容物を安全に保管するための小さな骨壺の封印にも、セラミック転写でパーソナライズを施すことが可能だそうです。 陶器のコバルトブルーの色が、 愛する人を失った 「憂鬱」や「悲しみ」を表し、 故人を敬い、記憶にとどめ、そして、そこから 現在そして未来への 力とエネルギーを得たり、 悲しみを乗り越えるの慰めにもなることでしょう。
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Heliotrope 香水草 5月24日の誕生花の一つ、「ヘリオトロープ」 (Heliotrope)は、花言葉は、 「献身的な愛」「夢中」「熱望」で、 ギリシャ語のhelios(太陽)+trope(向く)で、「太陽に向かう」という意味があり、ギリシャ神話では、水の精クリティアの変身した花とされている ます。 ペルー原産で、ペルーでは「愛の薬草」、ドイツでは「神の薬草」、フランスでは「恋の草」と呼ばれています。 日本には明治時代に伝わり、日本語で「香水草」「匂ひ紫」と言われています。夏目漱石の小説「三四郎」でも、ヘリオトロープの香水が登場し、歴史ある魅惑の香りです。 ヘリオトロープは、開花後に花の色が徐々に変化する特徴を持ち、 咲き始めは、 濃い鮮やかな紫色。 咲き進むと、 日を追うごとに色が褪せ、薄い紫色や白っぽい色へと徐々に変化していきます。   この花の上品な薄紫色は、ビクトリア朝時代(19世紀)のイギリスで、葬儀の最終段階に着用する「半喪服(ミディアム・モーニング)」の色として好まれていました。 現代の一般的なブラックフォーマルとは異なる歴史的な背景ですが、故人を悼む心の移り変わりを表す色として知られています。 Héliotrope Blanc Eau de Parfum – L.T. Piver Fine Fragrance 日本語名「 香水草」は、 バニラに似た甘く濃厚な香りを放つことが特徴で、古くから香水の原料として使用されてきたことからこの名がつけられました。 ロジェ・ガレ社の『Heliotrope Blanc』(フランスでは1892年(明治25年)に発売)は、 日本に輸入されて初めて市販された香水 といわれています。 上の写真の L.T. Piver(エル・ティー・ピヴァー)《 1850年に誕生したフランスの老舗香水メゾン》 の 「ヘリオトロープ・ブラン」 は、このブランドを代表する名香として知られています。 1865年、アルフォンス・ピヴェールとその息子リュシアンは、この香料を巧みに取り入れ、丸みのあるバニラの香りが漂う、包み込むような香りを生み出しました。 その後、 この伝説的な香水は、時代と大陸を越え、カリブ海の島々にも伝わり、その物語は今もなお語り継がれています。 何故、日本の鳥居が香水瓶のラベルの中心に使われているのか不思議です。
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Festival de Cannes カンヌ映画祭 The history of the Festival - Festival de Cannes 今は、レッドカーペットに、映画スターがここぞとばかりにゴージャスなドレスとタキシード姿で颯爽と現れるイメージですが、昔は、上の写真のように、まるでバカンスを楽しむかのように人が集まる場所だったようです。 1946年にフランス政府が開催して以来、毎年5月(1948年、1950年は中止)にフランス南部コート・ダジュール沿いの都市カンヌで開かれている国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の映画祭です。 カンヌ映画祭はベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と併せ、世界三大映画祭のひとつに数えられ、 入場が上映作品や映画業界、報道等の関係者に限定され、一般客は入場できません。 第79回カンヌ国際映画祭ラインナップが発表! 日本から3作品がコンペティション部門に選出 | Vogue Japan 2026年5月23日土曜日に開催される、第79回カンヌ映画祭では、日本から、パルム・ドール受賞監督である是枝裕和の『箱の中の羊』、深田晃司の『ナギダイアリー』、濱口竜介の『急に具合が悪くなる』の 3作品がコンペティション部門に選出されます。 深田晃司の『ナギダイアリー』 は、2013年公開の『ほとりの作子』(原題:Au revoir l’été)を彷彿とさせる、日本の田舎を舞台にした繊細な物語を提示する。『ほとりの作子』は、ロメールの影響を受けた夏の物語であるです。 小津安二郎監督の『東京へ旅する』に着想を得た平田織座の戯曲『東京ノーツ』を原作とする 『ナギダイアリー』 は、舞台を日本の西部にある小さな山村に移しています。 都会の喧騒から遠く離れた凪で、離婚した建築家が彫刻家となった元義姉を訪ねます。 彼 女がモデルを引き受けたことから、短い滞在のはずだったものが、いつしか時間の流れが止まったような感覚へと変わっていきます。 同じ仕草が繰り返され、沈黙の時間が次第に重くなっていくにつれ、埋もれていた過去が徐々に浮かび上がってきます。 「アーティストとモデルの関係、そしてその間にあるキャンバスや彫刻といった空間は、ジャック・リヴェット監督の『美しきトラブルメーカー』で非常に巧みに描かれており、私に大きなインスピレーションを与えてくれました。...
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La Moreneta 黒い聖母マリア像 Our Lady of Montserrat - Spirituality in Montserrat 黒いマリア像(黒い聖母)は、肌や服が黒色に作られた聖母子像で、中世ヨーロッパを中心に約500体存在する。 代表格はスペインの サンタ・マリア・ モンセラット修道院の「ラ・モレネータ」(カタルーニャ語)で、12世紀の ロマネスク様式の 木造彫刻です。 カタルーニャ語で「日焼けした女性」や「小さな黒い女性」を意味し、日本語では「黒い乙女」や「黒い聖母」と訳されます。 肌の色 : 顔や手足が黒いのが最大の特徴です。もともと黒く塗られていたわけではなく、何世紀にもわたる 蝋燭の煤やニスの酸化 によって徐々に黒くなったと考えられています。 モンセラート修道院は、バルセロナから電車で約1時間のところにあり、 「ラ・モレネータ」は、 聖堂の祭壇上部に安置されています。 バルセロナ郊外の神秘の奇岩群モンセラットへ 右手に「宇宙」を象徴する球体を持ち、膝の上には松ぼっくり(永遠の命の象徴)を手にした幼子イエスを抱いています。 この 黒い聖母マリア像は、 880年頃、羊飼いの子供たちが山の中に不思議な光と音楽を見つけ、洞窟の中でこの像が発見されたと言い伝えられています。 1881年に教皇レオ13世によってカタルーニャの守護聖人に認定されました。 この聖母像に触れて祈ると願いが叶うという伝説があり、世界中から巡礼者が訪れます。 現在、マリア像の大部分はガラスで保護されていますが、右手の球体部分だけは露出しており、参拝者はそこに触れることができます。 黒いマリア像(黒い聖母)は、埃やろうそくの煤で汚れて黒くなったものもあるが、大部分は黒が本来の色であるとみられる。中世、多くが11世紀から15世紀にかけて製作され、ほとんどが木製です。 なぜ黒い肌か謎で、 キリスト教信仰以前にオリエント一帯、またはケルト文化圏に広まっていた大地母神信仰が吸収されたとする説、エジプトのイシス信仰と結び付けコプト教の影響をみる説等があります。 黒い聖母子像も珍しいのですが、ゴツゴツとしたとがった岩山に修道院があるのも、聖地の中の聖地だと言わんばかりの雰囲気を感じます。